「子どもの涙」 1998年1月1日 徐京植


イメージ 1 慰安婦問題などで執拗に攻撃され、我々は韓国人に辟易としています。しかし、私たちも日本に都合のいい理屈で洗脳されてきたのではないかとふと思いました。
 筆者が通った小学校は京都市内西部の下町の一隅にあり、かつて日本が植民地支配をした時代に、その辺りの電鉄工事に朝鮮から労働者を連れてきた関係で、同胞も多く住んでいました。日本で貧しい生活で耐え忍んできた在日韓国人たちは、大日本帝国による植民地支配さえなければ、なにも暮らしの方便を求めて日本に渡ってくる必要もなかったし、ましては他人の国である日本の文字が書けないことで辛苦する不条理に遭遇することもなかったのです。その上、「朝鮮」というのは、よろずアンフェアなもの、粗野なもの、いさぎよくないもの、みっともないものの代名詞とされていたのです。多くの朝鮮人が生きるために故郷を捨てて日本に流れてきましたが、筆者の祖父もその一人で廃品回収を業としました。父も祖父に連れられて貧窮地区を転々とし、何とか小学校だけは卒業したものの、すぐに自転車屋の丁稚になったそうです。母も同じような境遇で小学校にすらいけないまま、数えの9歳から西陣織の機屋に子守奉公に出ました。両親は1940年に結婚し、二人は小作農として働きながら、父は徴用を忌避するリスクを負いながら繊維製品のブローカーで日本中を渡り歩き、差別と貧困のただ中で家族を飢えさせないようぎりぎりの生活をしていました。
筆者が幼い頃によく口にした尻取り歌に「リカシャの禿げ頭」という文句があって、後のちにそれが李鴻章のことであったことがわかったそうです。そこに続く歌詞の「チャンチャン兵」は中国兵に対する蔑称であり、幼い子供たちがアジア民族を下に見た歌を知らないうちに口ずさんで、身体の中まで滲みついていたのです。日清戦争朝鮮半島を主戦場として戦われ、朝鮮はこの戦争の結果外交自主権を日本に奪われ、やがて植民地支配を受けることになったのです。
 1940年の日米開戦の直前には、朝鮮では日本の皇民化政策が極限にまで達していた時期で、朝鮮語の使用は禁止され、創氏改名によって朝鮮式の本名さえ使えなくなりました。危うく本名を失う危機は過ぎ去ったものの、敗戦後、朝鮮は解放されて先に故郷に帰った祖父たちの暮らしは安定せず、日本で稼いで仕送りしないといけないために父は日本に残り、やがて朝鮮戦争で南北に分断されたために帰国する機会は失われました。国内で残った在日朝鮮人の若者のほとんどは、みずからの出自の由来すら曖昧で、とらえどころのない不遇感で孤立していました。あるものはアパートの入居を断られ、あるものはアルバイト先で日本式通名を名乗るよう求められ、公務員試験や大企業の就職、面接、はては恋人への発覚まで、自分たちを排除する日本社会の壁をあらためて思い知らされます。表向きは屈託なさそうに見えても、心は不安と憂鬱に満たされているのです。彼ら彼女らの心の内を、どれだけの日本人が知っているのでしょうか。
1964年の日韓条約締結時に、日韓両国で反対運動が繰り広げられましたが、韓国側の主張は過去の植民地支配の歴史的責任がうやむやにされてしまうということでした。日本側は当時の佐藤首相が「日韓併合は当時の国際法に照らして合法」だと国会で答弁しています。私たちも「日本は朝鮮半島に鉄道を敷き、工場も造って恩恵をもたらした。また、日本でなければロシアが朝鮮を支配していたはずだ」と教えられています。しかしそれは日本側の理屈ではないでしょうか。在日朝鮮人のこれまでの苦労、差別による疎外、わが身で考えればいいようのない悲しい境遇です。単にややこしい隣人だと決めつけないで、相手の立場もよく知り、理解していくことから始めなければならないように感じました。
 この本の副題は「ある在日朝鮮人の読書遍歴」です。
最後に紹介される書物「フランツ・ファノン集」の、「一つの橋の建設がもしそこに働く人々の意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり泳ぐか渡し船に乗るかして川を渡っていればよい。」と説くファノン。筆者が「自分が朝鮮人であるということ、その疎外を意識してこそ前身が可能となるのだ。その前進は、せせこましく屈託した日常から広く普遍的な世界へと通じている。」と、かつての自分をいとおしみ、肯定する中でこれから歩いていこうとするところに共感を感じるのです。