「逃亡(油山事件」 2010年7月25日 小林弘忠

イメージ 1 長崎に原爆が落とされた翌日、B29搭乗員だった米兵捕虜が斬首されました。若くして見習士官だった主人公の青年は、上官の命令に従って刀を振り下ろし、戦後、絞首刑をおそれ逃亡します。戦前の陸軍では、「上官の命を承ることは実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」「命令は謹んでこれを守り実行すべし。その当、不当を論じ、その原因、理由等を質問することを許さず」と教育され、上官が志願を募り、誰も名乗り出ないと、一人ずつ指名して実行を命じていきます。「はい」と返答すれば殺人者となりますが、拒否しようものなら自分自身が投獄されて拷問を受けることになりかねません。無抵抗に緊縛されている捕虜を前に、人間としては「できません」と言わなければいけない。「自分には人を殺せません」と勇気を持って言えと心が叫んでます。足は震え、体は小刻みとなっていきます。しかし、戦前の軍隊の中で、ぶざまな格好は見せられません。6月以来、アメリカ軍の無差別攻撃や、新型爆弾で破壊されて大量に殺された広島や長崎の市民たちの悲嘆を思い起こせと、自分をなだめようとします。そして、その現場には法務将校二人が同席しており、それが軍律会議で決まった法律に基づく行為だと、その決定事項に従うのだと自分を納得させます。ついに彼の番になり、人殺しは耐えられない、これは自分の意思ではない。広島、長崎の大量の犠牲者を思い浮かべろ、各地の被災を考えろ、我が家も全焼したのだ。目の前にいるのはその鬼畜米英なのだ。“南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏”そうして刀を振り下ろしました。その直後に終戦となり、戦犯として死刑は免れないために逃避行は始まりました。
 昭和20年代前半は、アメリカ軍の連続的な攻撃で日本国民はただひたすら逃げ惑うばかりだけでした。その油山事件の前日には長崎に原子爆弾が投下され、軍部や国民の怒りは頂点に達していました。所属の西部軍は処刑を当日に決定したと言われます。国民の憎悪を知ってのことで、向こうがその気ならこっちもという感情が軍部にはありました。無差別攻撃で一般庶民を殺戮した搭乗員を処刑するのは復讐だったといえます。そのような事情を一顧もせず、アメリカは自分たちの無差別による蹂躙には頬かむりして、元日本軍の罪をあげつらいます。
 彼は、東京帝大医学部を卒業して医師となった父と、母も元御天医の家系の名家に、兄弟五人姉妹5人の五男として生まれました。戦争がなければ家も焼かれることなく、軍隊に駆り出されてこのような悲劇を強要されることもありませんでした。おそらく、大家族でにぎやかで裕福な恵まれた生活を送ったことでしょう。しかし、戦争で家は焼けて家族は没落し、戦犯としての主人公の行方を追って家族も執拗で苛酷な取調べが行なわれました。陶器づくりの会社で潜伏した彼は真面目に働き、周囲から認められ欠かせざる人材となりますが、ついに逮捕されます。その後の裁判の結果は?このような家族の人生を台無しにした悲劇は誰の責任なのか?簡単ではない問いに深く考えさせられます。