「ソウルの風景」 2001年9月20日 四方田犬彦著

イメージ 1 世界の裏まで行って隣人の悪口を言うような振る舞いの韓国には、一生関わらないつもりでした。仮にたとえ言い分が正しくとも、完膚無きまで相手を叩きのめした後、その相手とはどう付き合うつもりなのでしょうか?しかし、よく考えると韓国のことは全く知らないなと思って手にしたのがこの本です。
 日本人としては馴染み深い金大中大統領は、ノーベル平和賞を取った時、韓国では一様に祝するものでもなかったそうです。対外的には民主主義の闘志のような顔を見せていましたが、国内の経済問題についてはまったくで、国民をIMF体制の犠牲にしながら、北に対しては大量の物資を提供して受賞したと受け止められていたのです。前大統領の金永三氏は、野党を抹殺し、言論を弾圧し、不正選挙まで行なった独裁者が受賞するのはおかしいと批判しました。怖ろしい国です。金大中は、大統領になって最初に光州事件で有罪となった全斗煥盧泰愚前大統領たちに恩赦を施しました。北朝鮮に対するのと同じように、敵対関係にあったものもこれからは水に流して協力して欲しいという太陽政策だと思ってしまいますが、真相はそうではないようで、もし彼らの刑が実行されたら背後にいる軍が黙っておらず、政権そのものが危なくなっていたのです。経済的には、金大中が大統領になった時期の悪さは考えてあげないといけないかもしれません。それまで無理を重ねてきた経済政策が破綻し、アメリカ主導の世界秩序の言いなりにならざるを得ない時期に選ばれたのです。ただ、国民があらゆる手段を試して駄目だとわかり、最後の手段として期待したから当選することができたという見方もできます。
 韓国は70年代の朴大統領、80年代の全斗煥盧泰愚90年代の金永三、さらに金大中へと、軍事独裁政権から文民政権へ、さらには民主化へと急速に変貌を遂げてきました。この20年は日本の80年の変化に匹敵しているかもしれません。私たち日本人は、家電などで追い抜かれた韓国を同じ目線で見ています。だから、なぜ隣人を世界の裏まで言って貶すのか理解に苦しむのです。しかし、ついこの間まで軍事政権で、民主化してわずかしか経っていないのです。
 韓国は民族意識が異常なくらい高く、私たちはちょっと引いてしまいます。執拗な反日姿勢も、韓国が36年にわたる植民地支配のために民衆の中に日本文化が強く残存しているために、独立後に自らの民族主義的文化を急造するために断固として排除する必要があったそうです。この基本姿勢は90年代の金永三政権まで続きました。韓国のマスコミが機会あるたびに日本を叩く口実を探していることは、日本でも保守的なメディアが帝国主義的侵略行為を研究する歴史学者を、「自虐史観」と蔑んで批判するのと似ているとも言います。韓国内でも、ヴェトナム戦争での反省的意識はまだ少数派で、日本では想像もできないほど大きな困難の中ですが、確実に存在はしているのです。日本は従軍慰安婦での攻撃でもう被害者のような気分になってしまいます。謂れのない中傷とまで感じてしまいます。ただ、我々も言論界における歴史的侵略行為の隠蔽に洗脳されているのかもしれません。冷静に真実を知り、謙虚にならないといけません。
従軍慰安婦について国を挙げて日本を批判しているように感じますが、韓国国内ではいろんな意見があるのです。老人たちは元慰安婦を民族の恥だと強い憤りを持って語り、旧日本軍兵士の体験を持つ韓国人男性は口を拭い、事実の隠蔽に加担してきました。それぞれの立場でこの問題に傷つき、それをどう治療していいのかわからないと素朴に当惑している人がいる一方で、若者たちは無視という姿勢です。筆者は、もし現在の天皇皇后が、ナヌムの家を訪れて見学し、元慰安婦たちの手を握って謝罪と労いの言葉を口にしたとすればどうなるだろうかと提起します。涙を持って皇后を受け入れるのだろうか、それとも面会を拒否するのだろうか。歴代の総理大臣が十分に成し遂げてこなかったという謝罪が完璧に成されたと認めるのだろうか、それとも手の込んだ欺瞞だと反対運動を展開するのだろうか。だがもし元慰安婦たちがそれを受け入れ、それをもって日本国家の謝罪だと承認したら、そのときにこそ日本の天皇制の象徴的機能が侵略したあらゆる地域において確認されたことになるのではないかと言います。
韓国は、表向きはそれほど日本を拒否しているにもかかわらず、一方では水面下で日本文化の模倣品作りに血道をあげてきたのです。金大中政権になって日本文化が解除されてからは、表層でもブームが起こり、それまでの地下的なものと合い混ざって現代韓国文化の根底に深く根ざしており、そのアイデンティティ形成の重大な要因となっています。これからも反日はことあるたびに思い出したかのように唱えられるでしょうが、このような背景から、そうした主張はいかなる意味でも効力を持ちえないと言います。韓国と日本が二つの相対立した民族とみなし、両者の文化が根源的に異質でなければならないと考えるほうが民族主義的情念を十分に満足させられるでしょう。しかし、韓国も高句麗百済新羅から成り立った歴史があり、日本でも琉球アイヌがあるように各地方ではそれぞれの特徴があり多様なのです。範疇的二項対立ではなく、それとは違う多様なモデルの下に、民族と文化の問題を捉える、手持ちの材料を組み合わせて混ぜ合わせの文化を築き上げること、我々に求められているのはこの混合形態に他ならないと言うのです。文化のハイブリッド化、雑種化、載せた具を混ぜ合わせて食べるビビンバ化、その役割を在日韓国人に期待すると結んでいます。つまり、草の根で交流を拡大して、理解を深め合うということなのでしょうか。