「アフリカで寝る」 1998年8月1日 松本仁一著

 イメージ 1朝日新聞の記者であった筆者が、1980年から95年までの間に短期、長期の取材でアフリカを何度も訪れた時の体験です。高級ホテルから最底辺のホテル、民家でごろ寝したこともあれば、砂漠のテントで寝たり、空室が無くてホテルの床で寝たり、まさに「アフリカのいろんなところで寝る」です。アフリカはその当時まだまだ未知に属する世界で、内戦、虐殺、飢え、独裁など、あまりいいイメージはありませんが、そこでも私たちと同じような人たちが、悩んだり、笑ったりしながら生活しています。「食べる」とか「寝る」とかいう、人間なら誰もやっている行為から覗いたら、遠いアフリカの人々の生活が見えるのではなかろうか、そうすれば社会や文化が姿を現すはずだ、というのがこの題に込められているようです。
 未知の世界で仲間に入れてもらえる最高の方法は、その土地の言葉をしゃべることだそうです。たとえばケニアでは英語が公用語ですが、英語で買物をした時はかなり高い値段で買わされます。しかし、東アフリカの共通語であるスワヒリ語で値下げを交渉すれば、相手は「おっ」という感じでこちらを見て、値段はたちまち半分くらいに下がるそうです。これで外部の人間扱いから、半分くらい仲間に入れてもらえたわけです。もしそこで部族語であるキクユ語をしゃべったら、彼らは目を見開き、「今夜は俺の家に来い、一杯やろう」ということになるそうです。ただ、アフリカには七百もの言語があると言われ、それらをマスターすることは無理です。しかし、言葉が通じなくとも、彼らと一緒に食べたり寝たりしているうちに、仲間として扱ってもらえるようになるそうです。異文化と出会った時、最初から毛嫌いしてしまっては何の発展もありません。そんな時、食べるとか寝るとか分かりやすい部分から入っていくと、「なんだ、彼らも同じようなことをしているじゃないか」とか、「これはずいぶん違うやり方だな」などと感じることができます。そこからいろいろ考えるきっかけが出てくるし、思いがけない事実に気がつくこともあるそうです。
 モザンビークでは、ホテルのフロントで、ボラれるという次元ではなく、汚い紙に鉛筆でたどたどしい字を書いて何度も計算した挙句、宿泊代が異常に安くなる間違いをしているのに「私は間違っていない」と言い張ったり、航空会社のカウンターでは担当女性が発券に一人30分もかかって、それでも計算が間違ってやり直して半日後の飛行機に乗り遅れそうになったりするようなレベルです。この国では独立までの400年にわたってポルトガル植民地政府が教育の機会を与えなかったそうで、識字率10%前後だそうです。国営航空のカウンター職員や国営ホテルの会計担当が足し算すら満足にできないのです。こういう中で国づくりするのがどれほど難しいことか、識字率がほぼ100%の日本から想像するのは難しいことです。
 まだアパルトヘイトの残っていた頃、日本人は有色人種であるにもかかわらず「名誉白人」として扱われ、白人と同じレストランやホテルに入れ、白人列車やバスにも乗れました。同じ見かけなのに、中国人は一切使えません。しかし、それは英連邦を離脱して世界から孤立した経済的空白を埋めるためであり、経済的な効用のみを期待された「二流白人」の扱いで、無視されるような差別は日常的にあったそうです。しかし、ホテルにあるジャージーにゴム長靴の場違いな東洋人が入ってきても差別されません。それはマグロ漁船の漁労長で、ツケは必ず払うように約束は必ず守り、トラブルを起こしたことがなく、紳士として認められているそうなのです。ホテルのフロントの人たちは、彼らに接しているうちに、肌の色ではなく、人間として彼らを見るようになったのです。だから、何度か差別を受けていつの間にか言動を自主規制するようになった自分を反省したと筆者は言います。
 私も冒険大好きですが、ただ、アフリカの地方のホテルでは、ダニ、シラミ、ナンキンムシだらけというのには勘弁です。ましてや、筆者のように抵抗なくラクダとかイモムシだのをやすやすと食べることはできません。そういう意味ではまったくアマチュアの域を出られません。