「独酌余滴」 2008年6月30日 多田富雄

イメージ 1 免疫学の世界的権威だと評される著者が、世界中を旅して独自の視点で綴ったエッセイです。
 私たちの太陽系は45億年前に誕生しましたが、最初は不毛の天体であったものが約10億年くらいかかって最初の単細胞の生命を生み出したそうです。霊長類は約7千万年前の白亜紀に北米に出現し、それから3千万年余をかけて高等霊長類である類人猿が生まれました。類人猿とヒトとの分岐、つまりチンパンジーと原人の分岐は200400万年前で、ヒトの出現はごく最近のことです。そこからの進化の速度は急に速くなり、200万年前に原始的な石器を作り、150万年前に直立二歩足歩行を常にするように進化し、火を使い、発達した社会集団を作るようになりました。そして今から20万年前に旧人類と呼ばれる人間がアフリカに登場し、10万年くらいかけて世界各地に散らばりました。埋葬儀礼を持っていたネアンデルタール人はこの代表です。ところが、45万年前に同じアフリカで我々の直接の先祖である新人類が生まれ、またたく間に旧人類を滅ぼして地球上に広がりました。言語を操る遺伝子が生まれ、結果として文字が生まれたのが約5千年前です。類人猿から原人までに2千万年、原人から旧人類まで2百万年程度かかったものが、旧人類から新人類に代わるのに15万年余、新人類から現代人に至るまではたったの5万年に過ぎなく、文字の発明からはわずか5千年、進化は明らかに一桁ずつ加速しているのです。もしそうだとすると、そろそろ新・新人類が生まれるころで、彼らは文字情報の脳を一桁越えた脳を持っているはずです。生命についての夢は果てしなく広がりますが、この広大な時間と空間のスケールの中で、人間の生き方を考えなければならないと著者は問題提起しています。

 日本は世界に誇る医療保険制度を持つ医療先進国で、世界最長寿国を達成して世界に誇るべきことではないでしょうか。しかし本当にそうなのでしょうか。ニューヨークタイムズ誌に掲載された特派員の日本での体験記事が紹介されています。「中央アフリカの取材から戻ったその記者は、夕方突然40度の発熱と関節痛に見舞われた。トラックの下敷きになったように苦しく、アフリカでマラリアに罹ってきたらしく、友人に助けを求めるとすぐさま救急車で有名病院に担ぎ込まれた。しかし、担当医師はマラリヤを一度も診たことがないらしく、翌朝来るようにやんわりと追い返される。翌朝もう一度その病院に行くと、45分待たされた挙句、混んでいるので二日後に検査に来るよう言われ、苦しさで何とかすぐ検査してほしいと頼んでも、医師は不機嫌そうに様子を見るようにと言うばかりであった。この際の救急車代はかからず、診察費も無保険でたった8ドルだった。結局この記者は東京支社の友人が東京大学にいるマラリアの専門医を見つけてくれて、すぐ検査したら、最も死亡率の高い熱帯熱マラリアに感染していることがわかり、すでに肝機能障害が始まっているために大学病院に緊急入院させられた。しかし、どこの国でも容易に入手できるはずのマラリアの薬がこの国には無かった。その専門医が研究用に個人的に所有していた薬があり、この記者はかろうじて一命を取り留めた。記者目線で入院時に日本の医療費削減現場を観察したところ、病室でお茶を飲むのにしても湯呑は自分で用意してくださいと言われるし、一日おきと決められてるシャワーを浴びようにも石鹸もタオルも置いていない。もっと驚いたのは、ナイフもフォークもついていない病院食が出たことで、看護師に聞くと、お箸は自分で用意するものだと諭された。彼は五日後にめでたく退院できたが、その間の治療費は千ドルにも満たなかった。健康保険に入っていれば3割の300ドル以下なので、アメリカでは考えられない金額である。彼は、東京に安く滞在するのだったらホテルより病院に行った方がいい、ただしタオルと石鹸を持ってと皮肉って締めくくっている。」この不愉快な記事を読んで筆者は、日本は医療費世界一と言われるけれども、実際には先進国の中で最低のサービスしか受けていないことに思い当たったそうです。アメリカの1.6倍にもなる金額の医療費の大部分は、大量に出される薬代に費やされています。大学病院に入院しても午後4時にはきてしまう夕食、朝はプラスチック袋に入ったパンとバナナがぽんと出される有り様で、食欲がない患者は食べる気もおきません。このグローバルの時代だというのに、医学部の学生には十分な感染症の教育はされていないし、医師はマラリアという病気を診たこともありません。どこの国でも買えるありふれた薬すら認可されずに存在せず、国民は年間一人平均23万円もの医療費を使っているのです。ニューヨークタイムズに載ったこの記事は、日本の医療、医学教育の欠陥を正確にえぐり出しているのです。

 筆者はいろいろな国に呼ばれて訪問しています。異国を旅すると、それぞれの国が特徴のある伝統を持っていることに気が付くそうです。イタリアでは、どんな小さな村に行ってもその地方の守護聖人を祭った祠があり、毎年決まった日にそのお祭りがあります。アジアの国々にもそれぞれ伝統があり、豊かな自然に育まれた仏教国の穏やかな微笑み、過酷な気象と厳しい生活環境の中で生み出されたヒンズーの宇宙観、広大な台地と悠久の時間の中で人の道を求めた中国の思想など、今日の人々の考え方や生き方を規定しています。日本にも独自の豊かな伝統があることは言うまでもありませんが、特に日本の芸能の中には、能の翁のように「老い」という主題が見事に生きているものが多いと言えます。日本人が時間というものを単に過ぎ去っていく物理現象とだけ捉えたのではなく、時の流れによって積み重なってゆく自然の記憶のようなものを発見したのではないか、蓄積された時間の記憶の中に人間の一生を重ねあわせ、老いの姿にあらゆる喜怒哀楽の結実を眺めたからではないだろうかと、能への造詣が深い筆者は考えます。今、高齢化社会などと言って老人を厄介者扱いにしていますが、日本の伝統は決してそうではありませんでした。老いの姿に人生の究極の味わいを見出し、そこに時間の記憶という価値を与えて敬ってきたのです。西欧には見られないこの伝統的な価値観を、私たちは忘れてはならないと言います。

 インドに行って見る風景の闇は、貧困の度合いだけでは計り切れないほど深いと言います。貧困と言うだけなら中南米の方が凄まじいかもしれないですが、インドには何か別の種類の、心の闇のようなものが漂っていると思うそうです。そのようなインドに行っていつも驚かされるのは民衆の宗教心で、ヒンドゥー教という世界最古の宗教を母胎に仏教が生まれ、ジャイナ教シーク教が生まれ、いまでも新しい宗教のグルたちが生まれています。それを生み出しているのは。4千年の歴史を経て、ますます深まっているこの得体の知れない闇なのではないだろうかと分析しています。この闇の中で、唯一頼りになるのが宗教かもしれません。貧困、不衛生な環境、社会的な抑圧、希望の無い現実、生存を脅かすような情況の中で、唯一生きる力を与えるものとして、今でも宗教が再生産されています。そうだとすると、宗教はいわば体の持つ「免疫」の役割を果たしているのかもしれません。
 筆者がカリブの島で研究集会があるという誘いを受け、そこでの休暇に心躍らせました。しかし、実際に行くと会議の合間にはもう時間を持て余します。何とか子供のころ知っていた遊ぶ能力を回復しようと、遊びに熱中することに努力しました。しかしそれは言うべくして難しいことで、暇があるとつい原稿書きなどの内職をしたくなります。本が読みたくなり、仕事の話がしたくなります。西洋の学者のように寸暇を惜しんで遊びに没頭するということが、なんと困難なことかと実感します。それでも三日もすると遊びの初心者も少しは上達し、ヨットで沖に出ては舟を止めて泳ぎ、仕事のことなど考えないようになります。初めは退屈と闘っていましたが、帰る頃になってようやく遊びの楽しみがわかってきたようだったそうです。遊びというものが、単なる肉体の楽しみではなくて、魂の浄化作用や癒しの効用を持つことを悟ったのは、もうこの島を去る頃だったそうです。