「独酌余滴」 2008年6月30日 多田富雄
日本は世界に誇る医療保険制度を持つ医療先進国で、世界最長寿国を達成して世界に誇るべきことではないでしょうか。しかし本当にそうなのでしょうか。ニューヨークタイムズ誌に掲載された特派員の日本での体験記事が紹介されています。「中央アフリカの取材から戻ったその記者は、夕方突然40度の発熱と関節痛に見舞われた。トラックの下敷きになったように苦しく、アフリカでマラリアに罹ってきたらしく、友人に助けを求めるとすぐさま救急車で有名病院に担ぎ込まれた。しかし、担当医師はマラリヤを一度も診たことがないらしく、翌朝来るようにやんわりと追い返される。翌朝もう一度その病院に行くと、45分待たされた挙句、混んでいるので二日後に検査に来るよう言われ、苦しさで何とかすぐ検査してほしいと頼んでも、医師は不機嫌そうに様子を見るようにと言うばかりであった。この際の救急車代はかからず、診察費も無保険でたった8ドルだった。結局この記者は東京支社の友人が東京大学にいるマラリアの専門医を見つけてくれて、すぐ検査したら、最も死亡率の高い熱帯熱マラリアに感染していることがわかり、すでに肝機能障害が始まっているために大学病院に緊急入院させられた。しかし、どこの国でも容易に入手できるはずのマラリアの薬がこの国には無かった。その専門医が研究用に個人的に所有していた薬があり、この記者はかろうじて一命を取り留めた。記者目線で入院時に日本の医療費削減現場を観察したところ、病室でお茶を飲むのにしても湯呑は自分で用意してくださいと言われるし、一日おきと決められてるシャワーを浴びようにも石鹸もタオルも置いていない。もっと驚いたのは、ナイフもフォークもついていない病院食が出たことで、看護師に聞くと、お箸は自分で用意するものだと諭された。彼は五日後にめでたく退院できたが、その間の治療費は千ドルにも満たなかった。健康保険に入っていれば3割の300ドル以下なので、アメリカでは考えられない金額である。彼は、東京に安く滞在するのだったらホテルより病院に行った方がいい、ただしタオルと石鹸を持ってと皮肉って締めくくっている。」この不愉快な記事を読んで筆者は、日本は医療費世界一と言われるけれども、実際には先進国の中で最低のサービスしか受けていないことに思い当たったそうです。アメリカの1.6倍にもなる金額の医療費の大部分は、大量に出される薬代に費やされています。大学病院に入院しても午後4時にはきてしまう夕食、朝はプラスチック袋に入ったパンとバナナがぽんと出される有り様で、食欲がない患者は食べる気もおきません。このグローバルの時代だというのに、医学部の学生には十分な感染症の教育はされていないし、医師はマラリアという病気を診たこともありません。どこの国でも買えるありふれた薬すら認可されずに存在せず、国民は年間一人平均23万円もの医療費を使っているのです。ニューヨークタイムズに載ったこの記事は、日本の医療、医学教育の欠陥を正確にえぐり出しているのです。
筆者はいろいろな国に呼ばれて訪問しています。異国を旅すると、それぞれの国が特徴のある伝統を持っていることに気が付くそうです。イタリアでは、どんな小さな村に行ってもその地方の守護聖人を祭った祠があり、毎年決まった日にそのお祭りがあります。アジアの国々にもそれぞれ伝統があり、豊かな自然に育まれた仏教国の穏やかな微笑み、過酷な気象と厳しい生活環境の中で生み出されたヒンズーの宇宙観、広大な台地と悠久の時間の中で人の道を求めた中国の思想など、今日の人々の考え方や生き方を規定しています。日本にも独自の豊かな伝統があることは言うまでもありませんが、特に日本の芸能の中には、能の翁のように「老い」という主題が見事に生きているものが多いと言えます。日本人が時間というものを単に過ぎ去っていく物理現象とだけ捉えたのではなく、時の流れによって積み重なってゆく自然の記憶のようなものを発見したのではないか、蓄積された時間の記憶の中に人間の一生を重ねあわせ、老いの姿にあらゆる喜怒哀楽の結実を眺めたからではないだろうかと、能への造詣が深い筆者は考えます。今、高齢化社会などと言って老人を厄介者扱いにしていますが、日本の伝統は決してそうではありませんでした。老いの姿に人生の究極の味わいを見出し、そこに時間の記憶という価値を与えて敬ってきたのです。西欧には見られないこの伝統的な価値観を、私たちは忘れてはならないと言います。