「ふしぎなキリスト教」 2011年5月20日 橋爪大三郎著

  イメージ 1聖書には、神様が光あれと言って光と闇が分かれて昼ができた、夜ができたとかいうような、荒唐無稽のことが書いており、宇宙の始まりはビッグバンであり、人間は猿から進化してきたと考える方が主流の時代に、キリスト教を信じるなんてナンセンス、だと思ってしまいます。しかし、科学はもともと神の計画を明らかにしようと自然の解明に取り組んだ結果生まれたもので、多数の人々は「科学を尊重し、科学に矛盾しない限りで、聖書を正しいと考える」ことにしたのです。福音派は多数派の裏返しに、「聖書を尊重し、聖書に矛盾しない限りで、科学の結論を正しいと考える」ことにしたのです。今でこそ科学を信じない姿勢を馬鹿にする傾向のある日本人も、つい先頃の戦前までは、進化論を理解しているにもかかわらず、天皇陛下を現人神だとしていたのです。学校で進化論は理科の時間に習い、現人神は歴史の時間で別々に習うので、互いに関係なく、両方とも丸暗記する。このような態度は今の日本人にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。こう考えると、日本人に福音派の人々を馬鹿にする資格はないのです。福音派の人びとは、矛盾律を理解して、それに合せて自分を律しています。日本人は矛盾律なんかそもそも気にしていないので、矛盾律以前の段階かもしれません。信仰というのは、意識のレベルと、本人が意識していない態度や行動のレベルがあるように思います。どうしても意識のレベルで考えてしまいますが、ほんとうは態度のレベルがより基礎的かもしれません。例えばマルクス主義は、宗教はアヘンと言い、キリスト教をはじめとする宗教は斥け、意識レベルではどのような宗教も信じてはいないのです。けれども、マルクス主義という世界観の形式自体が、宗教的、一神教的です。マルクス主義歴史観に説得力を感じ、それを受け入れる態度の中に、すでに信仰が入り込んでいないでしょうか。そう考えると、もともとのユダヤ教キリスト教、その他の宗教的伝統がどういう態度を作ったかということを知っておかないと、世俗化された現代社会に関してさえも、いろんな社会現象や文化について全然理解できないことになってしまいます。
 キリスト教の場合、福音書の間にすでに不一致があり、神は単一でもそれを経験した人間の視点や見解にはすでに不一致があって、そうした違いは聖典である新約聖書の中に孕まれています。一方、イスラム教はムハンマドが神の言葉を受け取っているので、聖典であるクルアーンに多様性や多義性は入りようがないし、入ってはならないようになっています。キリスト教の苦肉の策のような三位一体説という結論も、同じ一神教ユダヤ教イスラム教には、このような問題は出てきようがありません。また、キリスト教ユダヤ法やイスラム法にあたる宗教法がなく、その内実は三位一体説のような学説で、それをさらにラテン語で述べるので民衆には理解できません。そこで大きな役割を果たしたのが十字架や聖人画、音楽や洗礼などの儀式でした。これらは言葉や教義がわからなくともそれなりに理解できます。近代化とはさまざまな分野における合理化の過程だと考えれば、イスラム教の方が首尾一貫していてキリスト教よりもはるかに合理化されているように見えます。実際、中世の後半にアリストテレスの哲学がイスラム圏からカトリック世界に逆輸入され、キリスト教神学の水準を大幅に引き上げたことからも、イスラム教が断然優位に立っていました。それなのに、なぜキリスト教圏が主導権を握れたのでしょうか。その理由は、宗教改革や新大陸の発見、科学技術の発展や産業革命、資本主義などいろいろ言えますが、最も根本的なところで大事な点を取り出せば、キリスト教徒が自由に法律を作れる点だと思います。宗教法の伝統では、法を作る主体は神です。キリスト教はそれを持たなかったがために、逆に自由に新しい法律(議会制民主主義などの)を作れたのです。社会が近代化できるかどうかの大きなカギは、自由に新しい法律を作れるかどうかです。イスラム経由でアリストテレスはじめギリシア哲学を受け入れてから、キリスト教徒は理性を宗教的な意味で再解釈しました。人間が神を理解しようと思うと、神の設計図や神の意図を理解しなければなりませんが、その可能性を与えるのが理性なのです。神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分を自然法と呼びました。こうして自然科学を始める体制が整ったのです。ユダヤ教イスラム教は宗教法があるので、まずその解明と発展を考えます。キリスト教は宗教法がないので、どう生きれば神の意思に沿えるのか、祈りの生活や、神学や哲学や自然科学をやったり、創意工夫しなければなりません。特に宗教改革が自然科学に弾みをつけたのです。プロテスタントは教会の権威でなく、自分の理性にたのむ点で自然科学を真剣に発展させていきやすかったのです。ただ、中国人もインド人もルールを作るのに全く抵抗がないので、発展が続くと、21世紀は中国人の考え方にキリスト教徒が影響されていく基調になるでしょう。