「日本<汽水>紀行」 2015年10月10日 畠山重篤著

イメージ 1汽水域とは、淡水と海水が混じり合う水域を指し、日本人はそこから多くの恵みを享受しています。河川水が流れ込む海とそうでない海では、植物プランクトンの発生量は約30倍から100倍も違い、それがそのまま漁獲量に影響します。例えば面積が同じの東京湾と鹿児島湾では、水がきれいそうな鹿児島湾の方が漁獲量が多いと思いますが、汚れていると思う東京湾の方が30倍もの漁獲があるのです。秘密は川の存在で、東京湾には一定以上の流量の川が16流入していますが、その水量は2年で東京湾を満杯にするほどの量なのです。それに対して鹿児島湾は、霧島の爆発でできた湾のために大きな河川が流入していません。海は青々としているのに植物プランクトンが少なく、南の海で盛んな真珠の養殖がここでされてないのはそのためなのです。植物プランクトンが少ないのは川から海に供給される鉄分の量が少ないためです。鉄は光合成生物にとって必須のミネラル成分で、光合成をする葉緑素の生合成に不可欠、呼吸系統に不可欠な成分です。さらに、植物の成長に必要な養分である窒素、リン、珪素などの吸収にも必要で、特に最も多く必要な硝酸塩を体内に取り込む際、これを還元しないといけませんが、そのための還元酵素の働きに鉄が関与しています。つまり、鉄がなければ植物は成長できないのですが、海の中には鉄が極度に不足しているのです。そのような鉄ですが、他の元素が生体膜を通過できるイオンという形で存在できるのに対して、鉄は酸素と結び付いて粒子となってしまうと大きすぎて生体膜を通れません。その鉄を植物が吸収できる形にするのが、川上流域の森林に存在していることがわかってきました。森林の葉が落ち、腐る過程でできるフルボ酸という物質が、土中の無酸素状態で水に溶けている鉄と結びついてフルボ酸鉄となり、河川で酸素と触れても安定していてそのままの形で海に届きます。これは生体膜を通過できる大きさなので、植物プランクトンや海藻が吸収できるのです。気仙沼湾の調査では、年間約20億円の魚介類・海藻の水揚げの9割、18億円分が大川が運ぶ養分によって育まれていることがわかりました。
 牡蠣は「海のミルク」と呼ばれるように、栄養学的にも優れた食品である。活力の源であるグリコーゲンが大量に含まれるだけでなく、必須ミネラル成分の亜鉛の含有量も多い。亜鉛はタンパク質の生合成に不可欠な成分で、細胞分裂に深く関与していると言われます。体内には男性が3グラム、女性が2グラム存在し、男性に多いのは亜鉛精子を作る重要な成分で、男女の秘め事には亜鉛を供給するというしかけもあるのです。このような牡蠣には食中毒のリスクもありますが、フランスでは「食中毒は食べた人の責任で、牡蠣に罪はない」という認識です。牡蠣を人間に合せるのではなく、人間が牡蠣に近づいていくという思想が根底にあるのです。
 瀬戸内海の調査で、年間約25万トンという漁獲量は年間5千万トンの光合成生産だけでは説明できない大きさだとわかりました。河川から供給される鉄起源で発生する植物プランクトンからの食物連鎖を遥かに超えた生物生産量で、光合成生物以外の魚の餌が存在していることになります。そこで直接太平洋に流れ込む四万十川河口を調査した結果、海洋微生物学生態学から忘れられた存在となっていたヤブレツボカビ類という、菌様原生生物で植物と動物界にまたがる奇妙な生物群集に注目が集まりました。これらは浮遊性細菌にとって分解が困難な木の繊維のセルロースをも分解することができ、南国の汽水域に生えるマングローブの葉も分解してくれます。このヤブレツボカビ類は動物プランクトンにも食べやすいサイズで、その細胞内には血液をサラサラにするDHADPAなどの高度不飽和脂肪酸を大量に含み、イワシの稚魚などには栄養価の高い餌となるのです。つまり、四万十川本流から供給される植物質の流出物(木の葉、葦など)を養分としてヤブレツボカビ類が増えて稚魚の餌となり、森林の腐葉土層でできるフルボ酸鉄は、植物プランクトンを増やし、動物プランクトン、魚と連鎖してゆくのです。海の生物にとって森と川は二重に関わっており、土佐湾20数頭棲みついていると言われるニタリクジラもその森の恩恵を受けているのです。
 屋久島は緑豊かな島で多くの河川が海に注いでいる汽水域なのに、沿岸の海底には海藻が少なく、トビウオの産卵に必要なホンダワラもほとんど見られません。屋久島が花崗岩の島でもともと土に栄養がない上に、戦後パルプ材として照葉樹林を大量に伐採してしまい、河川水が貧栄養になっていることが原因です。花崗岩塩基性成分が少なく珪酸分が多いため、風化しても植物にとって貧栄養の土にしかならないのです。しかし、縄文杉のように何千年も杉が生きているのはどうしてでしょうか。それはこの貧栄養の地質が大きく関係しており、肥えた土地に育つ杉は年輪と年輪に挟まれた柔らかい部分が厚いのに対し、ここは土地が痩せているために年輪の間隔が狭い緻密な材質になり、さらに雨量が桁違いに多い気候のために杉自身が大量のヤニや油分を分泌して防御しているのです。昔切った切り株(土埋材)が腐らずに残っているのは、そのためだそうです。
先にも述べたように、チッソやリンがいくら豊富にあっても、鉄がなければ植物は成長できません。陸上では土中に鉄分が豊富に含有されていますが、海水中では溶存酸素と結合して水酸化第二鉄という重い粒子となり、海底に沈殿してしまい、海水中の鉄分濃度は極めて低いのです。カリフォルニアの研究者の調査では、植物生産に最も不足しがちなチッソやリンが、アラスカ湾の表層では比較的高い濃度で存在していることがわかりました。では北洋海域での鉄分はどこから供給されるのでしょうか。その大きな要因は黄砂だと言われます。アジア大陸上空で舞い上がった黄砂が、ジェット気流に乗ってアメリカ大陸上空へ運ばれ、途中の北洋海域で海に降り注ぐというのです。アラスカ近海はチッソ、リンが多量に含まれた深層水が湧昇してくる海域ですが、アジア側に比べて植物プランクトンの発生量が少ないのは鉄分濃度が低いためで、海を越えてアラスカ付近に落下する黄砂が少ないためなのです。南極海ガラパゴス諸島周辺も深層水が湧きあがり、栄養塩類豊富な海域があるのですが、鉄が供給されたに為に植物プランクトンの繁殖が抑制されているのだそうです。環境悪化の指標のように思っていた黄砂にも、意外な役割があったのです。