「報道電報検閲秘史」2004年12月25日 竹山恭二著

イメージ 1 戦争時の検閲について、日露戦争時の郵便局の電報がどのようにチェックされて、国や軍に不都合な部分が削除されたかの具体的な検証です。本来の目的であるのは電報の検閲ですが、軍事郵便でやり取りされた私的手紙の影響も重大です。日中戦争や太平洋戦争を経験した世代には、軍事郵便には本心とかけ離れた建前しか書けなかったという先入観があり、ことに太平洋戦争中は「無事に軍務に精励しております」といったありきたりの文面が多かったのも確かです。差出人の所在地を推定させる記述や戦闘状況などが墨で抹消されたものもよく目にします。しかし、日露戦争の兵士たちは、しばしば非常に長い手紙を書きました。戦闘の状況、戦場の恐怖、家族への思いなど、実に濃やかな表現をしています。規制によって書けることと書けないことを選別され、現実とは違う戦争イメージを作り上げた新聞と違います。出征兵士の家族たちの戦争認識は、新聞などのマスメディアよりも、戦場にいる身内の兵士からの手紙によって多く形成されていたかもしれません。
新聞は防諜という手かせ足かせの中でしか記事を書けませんでしたが、時に検閲への不満をもらしながらも、報道管制の趣旨を概ね理解して自己規制した紙面づくりをしていました。国の存亡をかけた大戦争を迎えて、自由な報道を求めるよりも、国民大衆の戦意高揚をはかって国内戦時協力体制を盛り上げることに精力を注ぎました。同時にこの戦争を企業としての新聞を発展させるための絶好の好機として、新聞社同士の激しい競争を展開しました。部数を伸ばす最大の戦略は、速報とセンセーショナリズムです。いかに早く速報を読者に届けるかに重点が置かれて、猛烈な号外合戦が繰り広げられ、しかし、ニュースソースは限られていて号外の中身は似たりよったりだったので、赤色刷りや大活字で印刷して、いかにして人目を引くかに汲々としました。
戦況報道を許されない従軍記者たちは、ジャーナリストとしてニュースを追うことよりも、戦争を素材にして名文、美文を競い合いました。戦争記事の集積は読者を興奮させ、戦争の根底にあるマクロ的状況とは関わりない、きわめて情緒的な疑似環境としての日露戦争を形成しましたが、読者のみならず、記事を書く記者や発行する新聞社もまた、自らの書く記事に酔い、読者の興奮に酔い、同じ陶酔に巻き込まれてゆくことになったのです。そのような新聞が作り上げた連戦連勝の日露戦争像にとって、一銭の賠償金も取れず、せっかく占領した樺太の北半分を返還するというポーツマス講和条約の結果は到底受け入れがたいもので、各社は一斉に反対の論陣を張って大衆を扇動したのです。それが日比谷焼打事件につながっていくのですが、その背景には都市化の流れの中で大量に発生しつつあった職人、人足などの都市雑業層の戦争によって捌け口を失っていた不満も新聞が組織化したという見方もできます。しかし、最も大きな原因は、新聞紙面によって国民大衆の中に作り上げられた連戦連勝の日露戦争の華麗な虚像と、政府が講和交渉にあたって依拠しなければならない実像との、あまりにも大きな乖離にありました。新聞は兵士たちの戦闘は華麗に書いたけれど、国と国がせめぎ合う戦争は伝えなかったのです。このような狂乱状態に陥った内地の状況を、肝心の前線の兵士は醒めて冷静だったようです。