「ピカソ」 2000年10月16日 飯田善國著①

 教養ないためにいまだピカソの絵の意味がわかりません。せめて何が描いているのか、少しでも理解したくてこの本を読みました。
 ピカソが登場するには二つの世紀が必要でした。そして、立体派(キュービズム)が生まれるためには、20世紀という時代と、パブロ・ピカソ及びジョルジュ・ブラックという二つの個性が必要でした。
ピカソ1909年ごろのいくつかの肖像画
イメージ 1(「女王イザボー」











「テーブルの上のパンと果物鉢」
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マンドリンを弾く女」イメージ 3











「扇子を持つ女」など)は、明らかにセザンヌの画法の直接の翻訳だそうです。ピカソセザンヌに発見した方法は、三次元の奥行きから成り立っている自然を、二次元の平面に置き換え得る可能性でした。セザンヌ自身が自覚してそうしようとしたわけではありませんが、彼は異常に鋭い実在への感覚を持った人でした。自然が輝きながら瞬間瞬間明滅し、言葉では表せない強度で彼の方へ突出してくる何ものか、光が自然の表面に当ってそこにある明るさと暗さの変化をつくり出し、その変化が刻々に変化しながら実在というものの内部の構造と力を眼に示す時、彼はどうやって自然の全体を掴まえられると感じたのでしょうか。物体の表面に当たる光の変化を忠実に追ってゆき再現しようとすれば光を中心の主題としなくてはならなくなります。そうすれば光の変化を正確に捉えることはできますが、光がその変化をつくり出した当の物体の実在感は犠牲にされてしまいます。
その最もいい実例は、モネの「ルーアンの大聖堂」連作イメージ 4や、晩年のジヴェルニーの「睡蓮の池」連作に見ることができます。晩年のセザンヌがモネを評して「彼は眼にすぎない。だがなんという素晴らしい眼だろう」と称賛したように、モネが生涯の情熱を注いだ光の追求という問題にセザンヌは深く同感しながらも、それに同調することはできませんでした。また、ドラクロワが情熱や感情の質を描き分けるのに使った色彩という武器を、自然の持つある名状しがたい存在感の表出に使い、ある説明不能な実在感を表そうとして苦心惨憺しています。セザンヌは、そのドラクロワを卒業後に印象派の仲間入りをして、光と色彩の関係に開眼しましたが、それでも彼は決して一度も印象主義者になったことはありません。ここが、モネやピサロシスレールノワールとひどく違うところです。他の仲間たちが光の変化を追って明るい華やかな色彩を作り出していく間も、じっと自然を視つめて、光の奥にある実在というものの手触りに照準を当てていました。「自然という実在があるから、われわれは光を見ることができるのだ。実在を抜きにして、光だけを表現して何になる?」セザンヌ自身が言うように、彼の風景画や静物画や自画像のどれもほとんどが未完のままに終わったのは、追求した主題の困難さを物語っています。例えばここに1本の大樹があり、そのそばに一軒の廃屋の壁があり、そこに太陽が当ってきらきら輝いているとします。樹木の葉の一つ一つにも太陽の光が輝いており、葉の総体が構成する樹木全体は一つの量として実在しています。壁の石にも夏の陽が当り、空気もまた一つの実在として透明に輝きます。モネなら、これらの物に当って変化していく光の総体を捉えることで、風景の全体をつかまえられると信じていたでしょう。しかし、セザンヌはモネのように色彩を分割したり並置したりして光を表現する方法をとりませんでした。彼の興味の中心は光そのものの表現にはなくて、光を透して視られ、現れる自然や物質の存在感そのものの表現に向けられていたのです。一瞬から一瞬への光の変化に捉われていれば、光が媒介して表出している物体そのものの強度・実質・存在感や構造といったものが逃げて行ってしまうことに彼は気づいていました。光が表出するこの世界の明るさを放棄しないことと、その光に捉われるあまり自然が持つある純粋な物質感の強度を失わないこと、つまり、その強度を実現することと光りの表す世界を一致させることという、矛盾した命題を選択したのです。具体的には、セザンヌは立体としての自然を平面の筆触で埋めることで平面化してしまったのですが、視る者はその平面化された画面の中から、本来の三次元としての物体が立ち上って視る者の方へ向ってくることをはっきりと感得します。この矛盾の構造がセザンヌの絵画の魅力の秘密で、晩年に至ってようやく矛盾する命題の追及に成功したのです。セザンヌの風景画に、現在という一瞬から逃れ出て、何か永遠の時間のなかに凍結された現在の姿というものが現れているのは、彼が現象を描かないで、本質を描こうとしたからかもしれません。代表作のサント・ヴィクトワール山は今日の用語で言う抽象画に似ていますが、セザンヌが対象を直視しながら描いた絵で、想像画でないところが異なります。イメージ 5
ピカソの初期立体派時代の諸作品のほとんどは(特に1909年代)、構成の垂直性、セザンヌ的特徴の青灰色の諧調と黄褐色の色調を主とした色彩という本質において、どうしようもなくセザンヌ的です。人物・静物・風景の諸部分を等価に扱う主題のどれもが、ほとんどセザンヌの直訳といえます。しかし、相違点もあります。画面に描かれている物体の諸部分がみな等価であることは同じですが、ピカソは実際の描写に際して、あらゆる物体がその固有の存在の強さを持つ事実を忠実に再現しようとしませんでした。諸部分が等価ではありますが、セザンヌと違って固有の生命・性格・輝きを持っているとは言い難く、それらがある方法によって組織されたものですが、組織するということ自体が目的、言い換えれば、セザンヌは自然という対象と取り組みましたが、ピカソは方法それ自体を対象としているのです。ここに、方法を意識する20世紀芸術の特徴がいち早く現れています。自然を絶対の教師とした19世紀人と、自然を人間の方法の延長のうちに視た20世紀人との明らかな相違を見ることができます。ピカソにとって、自然(人間・都市・事物も含め)は自己の発見した方法と、その語法によって語られる対象なのであり、第一義なのは、ピカソ自信がそれらをどう眺めるか、どう感じるか、そしてどう表すかでした。つまり、絵画の主題と動機は、自然という対象から自己の内部へと転換されました。ピカソの「青の時代」や「桃色の時代」の作品は、ピカソの感情世界を透過して視つめられた対象としてのみ表象されている点に特徴があります。それは一見、外界の形を取っていますが、本当はピカソの内部世界そのもので、一種のロマン主義であり、象徴主義であり、主観主義で、かつ一種の神秘主義なのです。「青の時代」の作品の持つ一種異様な切迫した感情、深い悲哀、謎めいた雰囲気は、感情の伝達を主目的としている点で「詩」や「文学」に極めて近い絵画だと言え、人々に好まれたことからもわかるように、19世紀の絵画とつながっていたのです。そして、「青の時代」中期の1903年「ラ・ヴィ」の佇っている3人の人物が列柱のように画面を縦に強く切り裂いていること、「年老いたギター弾き」にもイメージ 7













「盲人の食事」イメージ 6








「年老いたユダヤ人」にも極めて意識的な垂直イメージ 8性の強調があります。











1904年から始まる「桃色の時代」の「役者」イメージ 9
















「軽業師の家族と猿」イメージ 10












「玉乗りの少女」イメージ 11













「サルタンバンクの家族」イメージ 12








「扇子を持つ少女」イメージ 13











「馬を引く少年」にも、イメージ 14
構成の垂直性はなおはっきり続いています。主題の人物たちの垂直性の強調は、細い、痩せた人物たちの姿態を強く印象付けるための構成上の必要からも来ていますが、これらの人物たちの孤立と孤独という状況とも関係あります。











さらに初期立体派時代の1909年にピカソが描いた「オルタ・デ・エブロの貯水池」「オルタ・デ・エブロの家並」「オルタ・デ・エブロの工場」イメージ 15「アニース・デル・モーノの壜」「扇子・塩入れ・メロン」これらの構成の驚くほどの垂直性の強調も明らかにセザンヌの影響です。ただ、「年老いたギター弾き」のX字形に組合わせた脚、その上に構えられたギターの胴にかかる右手、右に水平に傾けられた老人の頭部、弦を押さえる左手、垂直な胴体、これらすべての組み合せが、まるで一個の完璧なゴティック的な構造体として構成されており、相互に組織されて醸し出すリズムは一分の隙もなく、まるで形態の交響楽を聴くかのように我々の視覚に魔術の作用を及ぼします。しかし、注意して子細に見ると、この作品に立体派の方法の最初の萌芽と呼ぶべきものが見られます。「盲人の食事」にも同じように、立体派の手法への手がかりとなるものが含まれています。今日の眼で「青の時代」と「桃色の時代」の諸作品を見ると、それらはまさに19世紀と20世紀の境界に位置していてアール・ヌーヴォーの池にどっぷりと身を浸していますが、それから一歩距離を置き、孤立しようとする明確な意思も読み取れます。だから、「青の時代」は立体派へ一歩ずつ近づいていくための準備期だったのです。ピカソセザンヌの裸形へ少しずつ忍び寄っていくのです。「桃色の時代」の1906年に描かれた「ガートルード・スタインの肖像」は、イメージ 18冬の間90日間もスタイン女史をポーズさせたのに絵を完成させることができず、仕事の時間がなくなってきた時に突然「あなたを眺めてももう僕にはあなたが見えない」と言って頭部全体を塗り消してしまいました。そしてスペインに旅立ってしまうのですが、秋になって戻ってくると記憶を頼りに1日で書き込んでしまったのです。その顔は彫が深く内省的で力強く、意志的な人格を見事に描き上げており、ある意味でアフリカの彫刻に似ているこの顔は、ピカソの立体派を気味悪いほどに予言しています。この絵が似ていないという意見に対して、「気にすることはない。そのうちあなたの方が絵に似てくるだろう」とピカソは言い放ったそうで、事実、彼女が年とともに絵のなかの彼女に似ていったそうです。この絵を構成しているあらゆる部分の形態は、お互いにせめぎ合い、衝突し、軋みながら、分裂と分解へ向って雪崩れようとしているのですが、それをピカソの造形的な統一への意志が必死で食い止めています。約言すれば、この絵の後ろには何十枚もの、未だ生まれざる立体派の絵画が匿れているともいえるのです。この1906年という年はピカソにとってたいへん重要な年で、イベリア彫刻・ギリシア古代彫刻・アフリカ彫刻などの研究を通して、量塊を面への分解とその再構成によって捉えようとする苦心がにじみ出ています。「髪を梳る女」「二人の裸女」「男と女と子供」「自画像」などに、立体派への始まりとよんでいい面の単純化と部分の強調、量塊の一元化などが見られます。ただ、量塊感を出すためにどのように細部を切り捨てていったらいいか工夫していたのが、1907年の「黄色いブラウスの女」になると、突然、彫刻的な量塊感の表現への関心は消え失せて、替わって分解した平面、主に三角形の平面の寄せ集めで人物の肉体を表現しようと志向します。前年までは人間の顔を古典主義的に人間らしく優美に表現しようとしていたのに、ここで顔を一つの記号として取り扱う方向へ転換するのです。人体を記号として取り扱う可能性に目覚めたように見えます。その視点はアフリカ・コンゴガボンの仮面から学んだのですが、アフリカではその仮面が超越者との交流・交感・取引の場としての儀式に用いられています。セザンヌの何万回と重ねられた薄塗りの平面の輝く色彩の間から立ち上ってくるものと同じく、彼はそれを掴まえなければならないのです。彼を取り囲んでいる物質の向うには、何か得体の知れぬ不安なものがとぐろを巻いています。人間の記号化は、この見えない力との取引の場(儀式)に引き出すためです。彼はそこで突然、「青の時代」に自分が神の領域に近づこうとして苦悩したことの一切が、自分の認識の一方的な偏狭さに原因していたことを理解しました。キリスト教の成功した体系だけを見ると、世俗的人間の一種の自己慰安に成り下がり、それを背後から脅かし、かつ支えている「否定の力」の全体系を見失うことあるのです。1907年の全期間が、まるでアフリカ人になり切ったように、手に入れた記号化の可能性の振幅の探究に捧げられました。「アヴィニョンの娘たち」は、イメージ 16記号を手に入れたピカソが最初に試みた大作で、事実上の立体派の出発でした。1908年の「森の妖精」では、「桃色の時代」の優美さから一転して野生の生命力へ跳躍していることがわかります。裸婦の肉体は平面の組み合わせと陰影によって驚くほど力強い量塊性を獲得しており、不気味なのは、木の精でもあるこの女が森の奥から男狩りに出てきているように見えることです。かすかに密林の奥から原住民の太鼓の音が聞こえてきて、女はそのリズムに乗って腰を振り、性器を開きながら男たちを挑発するように滑り出てきます。イメージ 17右手は歓迎の意を表し、左掌の拳は固く握ったまま、いつでも気に入らぬ男を撲り殺すことができるように身構えています。これはたぶん挑発の儀式なのでしょう。これを二年前の「髪をもつ若い裸婦」の優しさと対比してみれば、その激しい変貌に驚かざるを得ません。ピカソは記号化の手段を手に入れると同時に、あの「否定の力」との黙約をてこにして「野性と物質」と、その現象である「生命力」を手に入れたのです。それは物化された生命力による回春、文明の失った野生への回春でした。優れた絵画は、画家の眼に見える表面だけでなく、見えない物象の背面をも描こうとしています。眼に見えていない背面をも表現しなければ、その絵は完全ではないと本能的に感じているからです。二次元の平面に、遠近法によって三次元的イリュージョンを作りださねばならぬ画家は、その本質的背理に誘惑され続けるとともに、彼を悩ませ続ける解決不能の落とし穴でもあります。「アヴィニョンの娘たち」は、絵の中の女たちがあたかも現実の空間にいるように、絵を見る人に向かって挑みかかってくるのを感じます。女たちは画面からはみ出して、こちらに向かってせり出してくるかのように見え、見る人をこれらの女たちと交渉しているかのような緊張と不安に巻き込まれます。女体の平面化によって現実感が薄れるのを怖れたピカソは、五人の女たちの顔を三つのタイプに描き分けています。中央二人は文明の顔、左手横向きのは文明と野生の混交した顔、そして右手二人は一人は直立し、もう一人は背中を見せて股を開いて座って顔だけ観客の方に向けている~不可解で挑戦的な、そして悪意さえ抱いている野生の女として表しています。人体はさまざまな平面から構成されている立体ですが、それを二次元の平面に移植するとき、奥行きを排して、完全な二次元平面の組み合わせとして表現できることを、イベリアの彫刻やアフリカの黒人彫刻の研究から到達した人体解釈の一つの結論としてここで出しています。ピカソが人体を平面に分解して、それを奥行きを排した純粋二次元の平面の組み合わせとして画面に再構成した時、それがルネッサンス以来の世界解釈の否定となることを彼は知っていました。この革命の背景には、ピカソの生まれた1880年代から西洋に一般化しつつあった漠然とした存在への不安がありました。この世界は神によって企画された予定調和的なものではなく、本当はすでに神は死んでしまったのだというニイチエ的な認識がゆっくり広がりつつありました。ワグナーなどは古代の神々への感情移入によってこの深淵を埋めようとし、ボードレールマラルメなどは抽象的な神である絶対美の背光の袖に己の絶望を掬い取ろうとしました。しかし、実証性を追い求める科学者たちは不可侵領域かとおもわれた原子の世界にも容赦なくメスを入れ、
キューリー夫人はラジウムの発見によって原始崩壊という事実をも突き止めました。今まで堅固で不滅なものと信じていた原子が崩壊すれば、世界観が根底から崩れていく恐怖を味あわせたのです。世紀末の芸術であるアール・ヌーヴォーは、このような漠然たる時代の不安の底流の逆説としての表現でした。その不安の層の深さを、優美で熱病的な曲線の多用によるアラベスクで覆い匿そうとしたのです。ピカソも「青の時代」には曲線を多用していましたが、キュビズム(立体)によって自分自身の過去および現在から逃走しようと、アール・ヌーヴォーから逃れようとしました。彼が逃れたいと願った時代の不安、それは近世が培ってきた人間中心の世界像が破産しつつあるのではないかという予感からで、ピカソは本能的に近代の自我の解体が、近代が作り上げた人間中心の世界像の崩壊と並行していることに気が付いていたのでしょう。写実主義が想像した堅固な自然と世界の秩序の外観は、それに見合う堅固な自己の存在と対応しており、世界の秩序は自我がそれを求め、世界から抽象して作り上げた内部の像の投影にすぎません。リアリティは客体の中に存在すると信じたのに、20世紀の芸術家は突然そうではないことを知って驚きます。ピカソは、リアリティが客体の中に存在するのではなく、絵画の中に存在すると、極めて20世紀的な考えをしました。ピカソが興味を持ったイベリアや黒人彫刻は、ヨーロッパ人が抱いてきた人間中心主義の人間観によって把握された人間像とは違い、森の囁きや大地の歓声、水の旋律や獣の神秘的な肉声、死者の呪文や太陽の言葉を日常の糧としている人々の感情と規準で作られた彫像で、人間中心主義とはおよそ反対のものに基礎を置いていました。19世紀までのヨーロッパ美学を否定し得る可能性を嗅ぎつけたのです。これらの要素は写実主義とは異なる原理で眺められ、把握され、表現されています。その方法は記号的で、大地からそのままぬっと突き出た生命力、知識や知恵によって曇らされない、瞬間の全体的把握が、そこに生命を凝縮させているのです。生命を物と化した後、その物化された生命力で絵画を蔽うことで、逆説的に絵画に生命力を恢復させること、これがピカソが「アヴィニョンの娘たち」や「森の精霊」「三人の女」「三人の裸女」で行ったことです。平面化することは、現実からそれだけ遠ざかることを意味します。平面に分解された絵は現実に似ていないからこそ、その分われわれの想像力は強く刺戟されます。現実に似ていない分だけ想像力によって補うことを強いられるので、それが大きいほど刺戟的で、われわれを惹きつけるものとなります。想像力によって補うという作法は、意識の運動が起こったことと、意識の運動する空間が生まれたことを意味し、その空間は生き生きとした力を獲得します。ミレーの「落ち穂ひろい」や「晩鐘」を見る時、そこの主題の意味は明白で、我々の意識は次元を修正するための運動をする必要がありません。しかし、「アヴィニヨンの娘たち」を見ると、そこに女たちがいることはわかるけれども、どういう女なのかと考えさせられます。女たちの肉体は平面から成っているので異様で、現実に慣れた視覚への意識された挑戦です。平面のまま味わったものを現実の女のように三次元に復元して、あれこれ意識の中でいじくって見てから、もう一度画面に存在する通りの平面の組み合わせの女に戻します。このように意識の運動が起こるのです。この絵で重要なのは、主題がすべて平面の組み合わせで成り立っているということと、その主題を意味づけているのは「題名(アヴィニヨン=バルセロナのアヴィニュー通りの私娼館)」であることです。