「ヒトという生き物」 2003年12月15日 柳澤嘉一郎

 イメージ 1生物学者の目から見たヒト社会の話で、生物としてのヒトの宿命と性質を考え、過密社会がもたらすもの、戦争の起源、睡眠と記憶の不思議、階級性など、ヒトという生き物はなんと悲しい、なんと不条理な生物なのだろうと悩み考え続けます。
 ヒトには、人口の増え過ぎを生物的に抑制するシステムはほとんどありません。人口が急激に増え始めたのは歴史上ごく最近のことで、その原因は、衛生状態が極めて悪かったために疫病がしばしば蔓延したことや、人々が殺し合うような戦争がいつもあったためです。例えば14世紀半ばにヨーロッパで流行ったペストでは2500万人の人たちが亡くなり、第1次大戦では1000万人の将兵500万人の一般市民が犠牲となり、続いて起こった第二次大戦では2100万人の将兵が死に、一般市民に至っては死亡者数不明と言われていますが、少なくとも3000万人以上が犠牲になったと言われています。それ以外にも飢餓が人口増加にブレーキをかけてきました。日本では江戸時代の人口は3000万人台で保たれており、武家は長男だけが家督を継いで結婚し、次男三男は家にいて生涯独身で過ごすなど、得られる食料の範囲内で人口をコントロールするシステムを社会的に作り上げていました。しかし、近代化によってこうした抑制システムがゆるむと人口は急激に増え始めました。1万年前に約400万人だったのが、2000年前の西暦元年には18000万人、250年ほど前の17世紀半ばには世界の人口は7億人になり、そこから200年足らずの1930年代には20億人と3倍増、さらにそれからたった70年あまりのあいだに60億人へ増えています。現在の8億人あまりの人々はすでに飢餓や栄養失調に苦しんでおり、地球上で生産できる食料で養える人口上限は多く見積もっても100億人と言われています。崩壊はすでに貧困な国々で始まっています。どうしたらいいのでしょうか?答えは簡単で、生産できる食料以上に人口を増やさないこと、環境を汚染、破壊しないほどに人口を増やさないことで、そのためのグローバルな社会的人口抑制システムを構築しなくてはなりません。
 私たちは人口の過剰によって病気や食糧難が生じることはよく知っていますが、人々の行動にどんな影響を及ぼすかについては何も知りません。極度に過密な状態に長く置かれると、ストレスによってホルモンの分泌が異常になります。その結果、繁殖に必要な性行動や育児行動などに異常が生じ、一定期間後にその過密状態が緩和されても行動異常は元に戻りません。
 アメリカ社会は自由気ままなようで、住んでみると意外に厳しく、制約の多い社会です。すべてが自由で平等というわけではなく、むしろ、不平等で、階級意識の強い社会のようです。財産や学歴、職業から始まって、人々の住む地域や住宅、クルマ、そして日常の言葉づかいから生活のスタイル、マナーにいたるまで、すべてに階級意識がにじんでいるのです。果てはアルコールの種類のたぐいにいたるまで階級があり、学生がパーティでいつも飲むビールも、学生や労働者階級が飲むものと決まっており、アメリカへ進出した日本企業がアメリカの得意先にビールを送ったところ、相手がバカにされたと怒ったという新聞記事もありました。社会の構成が複雑になればなるほど階層分けも複雑となりますが、獲得すべき富や権力が大きく獲得競争が激しい社会ほど階層が生じやすいのでしょう。が、いったん階層ができると、それによって過剰な争いが防がれ、社会の混乱を抑制する効果も持っています。社会に序列や階層があれば、激しい競争が多少は和らげられます。しかし、あからさまな階層分けは社会の建前上あってはまずい。そうした人々の潜在意識がアメリカ社会に多様で複雑な序列や階層をつくり出しているのではないでしょうか。
 人の性格は、遺伝と環境によって決められています。無鉄砲な人たちの冒険心とか好奇心、新奇探索性と呼ばれる性向は、かなり遺伝的影響が強いものです。権力志向性や自己顕示欲など政治家が持つような性格や、隠遁家の内向癖も強く影響を受けます。一方、社会的倫理感の強さや善悪の判断基準の厳格さなどといった性向は、環境の影響を大きく受けやすいとされています。珍しいものへの探索心や挑戦への意欲、積極性、攻撃性、タフさを示すのは、ヒトの23対の染色体のうちの第11番目であることがわかりました。アメリカでの調査によれば、新奇探査性の強い人たちの中には、フロンティア精神に充ちたタフな人たちだけでなく、アルコール中毒やドラッグの常用者となる人たちも多いと報告されています。そのような遺伝子の配列数の頻度を調べると、ヨーロッパやアフリカでは多く、特にアメリカでは他のどこの国とも比較にならないほど断然多いことがわかりました。アメリカには他の国から渡ってきた人がほとんどで、世界中で最も冒険心に富み、攻撃的でタフな人たちの遺伝子を持っているのでしょう。
 人間の記憶は、まずは海馬で短期記憶がなされますが、これは数分か数週間すると忘れられてしまいます。ところが、一部の記憶は海馬に蓄えられているうちに淘汰されて大脳皮質に送られ、長期記憶として蓄えられ、何年経ってもなかなか忘れなくなります。大脳皮質には200億もの神経細胞があり、それらの結びつきの変化、情報の伝わる神経回路のパターンとして形成され、蓄えられているといわれます。
 両性ではなく、雄雌という二つの性が存在することによって作られる遺伝子の多様な組み換え体は、変化しやすい環境に生物を適用させるとともに、生存の間に損傷を受けた遺伝子を取り除いて次世代に伝えないようにしていると考えられます。クローンで作られた個体には、親が優良で頑健であっても、さまざまな遺伝的傷害や疾病が高頻度で認められるのです。
 老化について、細胞は分裂を止めるといつまでも生きられません。分裂をとめた老化した細胞や死んだ細胞が増えると、当然その器官の機能が衰えます。そのような細胞は周りの細胞によって取り除かれていきますが、周りの細胞もやがて老化して取り除くことが次第に出来なくなっていきます。老化や死は生きている限り防ぎようのない現象なのです。しかし、見方を変えると、私たち生物は傷ついて修復不可能な個体を死によって淘汰し、そうすることで生命の起源以来のいのちを存続させているとも考えられます。
最後に、ヒトは自分が生き残るための、いわば利己的な遺伝子をたくさん持っていますが、他人のことを考慮する利他的な遺伝子も持っています。利他的な遺伝子は、どうやらハゲの遺伝子と同じように歳をとるとより発現してくるもののようです。自分はもうすぐ終わりだというのに、次の世代の人たちはどのようにして生きていくのだろうか、ヒトは一体いつまで生き残ることができるのだろうかと、考えてしまうようになるのです。