「チベット高原自転車ひとり旅」1989.11.10九里徳泰

 1イメージ 1986年からチベットを自転車で横断してカイラス山に行った冒険記です。
 ラサを81日に出発して、最初の町シガツェへ4500m以上の峠をいくつも越えていきますが、酸素が薄くて頭痛はひどくなり、息も肺が痛くなるくらいゼーゼーする。目指す峠がすぐそこまでになっても、意と反して全身の筋肉が緩み、すぐヘロヘロになってその場にしゃがみこんでしまうような有り様です。チベットでは高度が高いため紫外線が非常に強く、目がくらむほど光が強いのでサングラスは必携です。また晴天で油断すると唇がやけどして水疱ができてしまって、モノを食べられなくなります。苦難始まりでようやく辿り着いたシガツェでは、地元で使う人民元香港人から両替してもらい、600元用意しました。これは当時のレートで日本円22千円弱ですが、中国の若い公務員の給料が月60元の時なので、現地では相当な高額です。110元使っても60日間は旅行続けられます。
 イメージ 4ネパールへの街道とも分かれてラカまで来ると、そこから先のゾンバ→マユム・ラはヤル・ツァンボー川が洪水のために難路となっているという情報を受け、北に進路を取って、ツォチン、ガルゼを通って標高4500m以上のチャンタン高原を横断し、グジ、獅泉河に至るルートを選択します。途中、チベット人のテントがあると、中に入れてくれて、まずチャーをすすめられます。彼らは1日に30杯から40杯ものバター茶を飲むのですが、乾燥したこの高原では水分を気にして摂取しないと脱水症状になるし、バターはその脂肪分により体を温めてくれるので、風土に合った全く合理的なものなのです。さらに食事も出して寝場所も提供してくれるように非常に丁重にもてなしてくれます。巡礼者に施しをすることによって自分にも功徳があるという習慣となのです。
 途中のガルゼの町は他の町同様に高い土の壁で囲まれていますが、かなり大きな町で、軍の施設や人民銀行、茶屋などもあります。そのトラック・ストップは13.5元(学生扱いで2元)ですが、食事は15元します。
その先のシュンバを峠一つ越えるとインダス河源流部の渓谷に出ます。そこからは約140キロの獅泉河までは5元でトラックに乗ることができ、3時間かかって到着しました。獅泉河からは、明日カイラスまでのトラックに30元で乗れることになり、自転車を預けていきます。  
イメージ 2トラックに乗って進んでいくと、やがて夢にまで見たカイラス山が見えてきます。まっ青なチベットの空に、カイラス山はほかの山々を睥睨してその白い頂を突き出しています。茶一色のチベットの荒野のなかで、万年雪におおわれたカイラスだけが輝いています。カイラスはこの広いチベットの中で「永遠の宝石」なのです。カイラスヒンズー教の名で「シバ神」を意味しますが、ヒンズー教のシバ派はリンガム(男根)を信仰し、カイラスもそのリンガムとして崇拝されます。だが、チベットではカン・リンポチェ(雪の尊者、尊い雪の山)と呼びます。この山を目指して、ヒンズー教チベット仏教チベットの土俗宗教のポン教の信者たちが巡礼に来る、世界でも特異な聖地なのです。
 カイラスの麓の町タルチェンには、しっかりした建物は二つしかなく、他はすべてテントしかありません。ここから3日かけて山を一周52キロ巡礼するのです。歩き始めて2日目にカイラス北面の絶壁の前に出ます。イメージ 3朝日をいっぱいに受けてチベットの青黒い空に神々しいほどに輝いてカイラス北壁がドンと鎮座しています。このチベットの中で異様な風景で、なにか「神」を感じさせます。インダス河源流部センゲ・カバブへの分岐を越えドルマラ・チュを左岸に渡ると、河口慧海の言う「三途の脱れ坂」を登り、服と髪の毛がたくさん散らばり、赤、青・・・ありとあらゆる色の布がちぎれて岩の間にこびりついています。行き倒れた順礼者の鳥葬場です。日本人は残酷なイメージを持つかもしれませんが、死ぬと肉体と霊魂が分離されて遺体は単なる物体だと考えるチベット人にとっては、まことに当然で合理的なことなのです。自分の肉体を鳥に食べさせることにより布施をしたことになるので、今でも多くのチベット人が鳥葬を望んでいるそうです。そこから最難所の5600mドルマ・ラに登り、そこで祈ることはすべてが叶ってしまうような神秘的に感じさせるところです。進行方向から二人の僧が上ってきますが、チベット教とヒンズー教は我々同様右回りなので、彼らがそうではないポン教の人たちだとすぐわかります。宗教が違って、やり方が反対でも、自然に相手を許容することに安心感を感じます。異宗教だと言って戦争を始める世界観はここではありません。
 ラサを81日に出発してついに9月に入りました。チベット高原1700km横断し、聖地カイラスの巡礼を済ませるまで1ヶ月かかりました。ここから924日にカシュガルに着くまで、シルクロードを走り抜けます。
 獅泉河から西はクンルン山脈を越えていきます。中印国境が確定していないアクサイチンも通ります。920日に、標高4900mセラク峠へ時速5kmで自転車を押して、7時間かけて登りきりました。思うように体は動かず、気温は1℃で雪がちらほら地面に現れます。人がほとんどいない地帯を進んでいくと、やがて標高はどんどん下がります。シルクロードは「悠久の台地」「歴史のロマン」「現地人の笑顔」などのイメージがありますが、しかし現実は単なる砂と岩の集積だし、現地人は基本的に無愛想、歴史のロマンは熱風の中で溶けかかっています。今も昔も変わらないのは環境の厳しさで、玄奘三蔵マルコ・ポーロ、オーレン・スタイン、ヤングハズバンド、スウェン・ヘディン、日本の大谷探検隊、彼らは馬や徒歩で移動したが、著者も自転車で体感している。困難な状況のなかで、悩み失望しただろうということが手に取るようにわかるのです。2000kmにも及ぶタクラマカン砂漠の踏査は、苛酷で大変だったでしょう。
やがて1500mのカールギリックに着き、低酸素の高地から降りてきた筆者はスーパーマンのように体にパワーがみなぎってきます。歩くにも一歩一歩に力が入りすぎて宙を浮くようで、ワインもジュースのようにゴクゴク飲んでも酔いません。酸素がどれだけ人間生活に必要なものかを実感します。しかし、仕事できているチベット人は元気がありません。新疆は暑くて低くて嫌だと言うのです。高原に住んでいるチベット人が低地に行くと、低山病にかかると言います。彼は、チベットには高い山がたくさんあって、そこには神が棲んでいる「神の国」だ。早くチベットに帰りたいと言うのです。
 このように1986年夏にラサからカイラス山を巡礼し、カシュガルシルクロードを抜けた後、翌1987年冬にはラサからロンブク寺からエベレストを見上げてネパールへ抜け、さらにその夏には再度ラサからチャンタン高原を経由してプランの市場調査をし、ウイグル自治区も駆け巡ってカシュガルからパキスタンに抜けました。最後にカラコルムを越えてチベットを去ろうとしている時に、チベットのラサでは独立を求めた僧による暴動が起こりました。それからは外国人の自由旅行は禁止され、報道管制まで敷かれました。著者は歴史の狭間の中で最もチベットが自由な時に旅行することができたのです。その後、著者は南米アコンカグア登山、アタカマ高地走破、パタゴニア湖、カナダ北極圏ツンドラ、タイガ原野の中を自転車で走りぬけたりしましたが、どれもチベットにかなうことはできなかったと言います。世界最大の高原の重みなのでしょうか、黒に限りになく近い空、茶褐色の不毛の大地、そこをユラユラと流れるツェンボー、その激烈な気候の中で陽気に歌いながら羊を追う遊牧民チベッタン。彼らが極限の高地といわれるチベット高原でにこやかに平和に暮らしている姿は、つねに著者に元気と勇気を与えてくれます。ラサの戒厳令が解かれて、チベットに自由が戻った時、著者は再び高原を自転車で駆けているだろうと締めくくっています。
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