「アブラコの朝」

1995620日著 イメージ 1ほのぼのとしたマンガを描く“はた万次郎”氏が、東京から30歳の時に北海道の下川町に移住するお話です。筆者は私と同い年で、私がバブル前後の大きな渦に巻き込まれている時、このような北海道の自然の中で犬と暮らすような夢を実現したことも羨ましく思っています。そして、あいだあいだに書かれた漫画が微妙な真理を絶妙に表現していて、とても笑わされます。
 名を成した漫画家の北海道移住といっても、贅沢なリゾート暮らしへの転機というものではなく、何度も壊れるおんぼろ車を修理しながら、捨てるか迷いながら古い洗濯機も引越で持っていくという貧乏暮らしなのです。筆者は釧路生まれで、現在も札幌に実家があるというのに、それらの縁があるところにはこだわらず移住先を探しました。北海

道で暮らそうとするのは、東京から遠く離れたいというのと、日常的にだらだらと遊びたいからだそうで、泳げないので転げ落ちるのが怖いという理由で海沿いの町は避け、山や川があって、それでいて夕日が早々と山の陰に隠れてしまわない地形、それと観光客の来ない場所として、たまたま通りかかった五味温泉につかったのが下川町だったのです。

家はとりあえず屋根がついていればいいと役場で紹介してもらい、中心街から13km離れた一軒家を月7千円という破格の安さ(それまでの東京の一間のアパートは59千円)を提示され、「ワ~~~~~~~~~~~~イ!!」と喜びを露にせず、了解しました。(結局家賃はさらに半値3500円になる)

 東京から2トントラック40万円の引越業者を使って引っ越した、便所も汲み取り式のその家はまだお化け屋敷状態でした。東京ではヘッドフォンでないと近所迷惑なので聞けなかったステレオも、ここで初めて大きな音を出してCDを聞きます。外に出て念のために騒音でないか確認しましたが、ステレオの響きよりも風の音のほうが大きかったくらいです。そうして少しずつ家を修理したり、家の周りの草を刈って庭を広めていきます。そのような万次郎氏は世捨て人のように人を避けるのかと思えばそうでもなく、けっこういろいろと出かけてどんどん知人を増やしていきます。(1ヶ月で40人も)開放的な北海道の人から食事を招待されたり、子犬をもらてきたりします。もらった子犬の白黒ブチの具合はホルスタインそっくりだったので、“ウッシー”と名前をつけました。ウッシーは大自然の中で走り回って、閉じ込められない環境で自由奔放に育っていきます。犬には鎖につながれないで外で大いに走りまわらせたいものです。雪の中を思いっきり走り回ったときのウッシーは、家に帰ってからは寝っぱなしになります。そんなウッシーにも感情があり、筆者との微妙なやり取りも面白いです。近所の17名しかいない小学校の生徒たちとも仲良くなり、小学校に遊びに行くと「はたまんじろうさ~~~~ん!!」と叫びながら走り回ってきて、給食もご馳走になりました。他の家に呼ばれて酒を飲めばそのまま泊めてもらったり、はたさんすっかり地元の人たちと馴染んでいきます。さらに4ヶ月過ぎて年末になると多くの知り合いができましたが、親しく付き合い続けるうちに生活が惰性的になっていることに気がつきます。気楽に付き合える顔馴染みの人にばかり会っていて、自分自身を気付かずにつくった透明な枠組みに閉じ込めていると反省するのです。はたさんは世捨て人なんかではなく、人と積極的に関わろうとする社交的な人のようです。

筆者は、都会から田舎に移り住みたいと考えている人にとって一番必要な情報は、田舎での収入を得る手段だと言います。過疎という弱みにつけ込んでかなりいい加減な気持ちで都会から来て、結局逃げるように姿を消してしまった人に田舎の人が不信感を抱くのは当然です。しかし、都会から来た人間だけがいい加減で問題があるというのは、田舎に住んでいる人間の自己満足の裏返しではないかと筆者は考えます。下川町の森林組合では積極的に人材募集広告を出したので、東京などから来て働いている人が7名もいるそうです。地に足の着いた生活と闘っている者だけにしか、そのたくましさは感じられません。北海道に漫然と憧れを抱く人や北海道を売り物にしたい人がよく使う「のんびりでおおらか」というイメージを丸ごと当てはめることには抵抗感があるそうです。その象徴たる風景の牧場は、酪農家が規模の拡大で採算が合うように設備投資で数千万単位で借金し、「なぜ牛乳がジュースよりも安い値段で売られるのだ」と嘆き、酪農家を辞めた今もその借金で苦しんでいる友人がいるそうです。一日でも乳を搾るのを怠れば乳房炎になってしまう牛相手の生活が、都会のサラリーマンと比べて自由な時間が多いのでしょうか?冬が来る前に牛のえさとなる牧草を確保するために夜中過ぎても刈り取り作業している酪農家の姿を見ると、北海道はのんびりでおおらかだという気分にはとてもなれないそうです。憧れや理想だけで自分の足元を見ようとしない人が時々いますが、それは酒場で愚痴を言っているだけで何もしようとしない人に似ており、付き合ってみると不愉快な気分にさせられることが多いそうです。反対に、田舎暮らしのような自分の理想のライフスタイルを実践していながら、生活基盤もしっかり確立しいる人の話を聞くと、筆者は単純に明るい気持ちになれるそうです。

全国で当然のように行なわれている町おこし村おこしについては、それが地元住民によって自発的に始められたのかどうかについて疑問が多い、行政の人間が自分たちの仕事が失くならないように、叶わぬことだと知りながら住民に甘い夢を見させ、大義名分にしているような気がしてならないと言います。田舎から都会に出てゆく人は、都会のほうが自分にメリットがあるとはんだんしているから出て行くので、それを食止める為には田舎を都会並みにして初めて可能になるはずだからです。村おこしを仕掛けようとしてくる人たちも、過疎を逆手に金儲けしようとしたいだけなのではないか、その最たる例が大手資本によるリゾートやテーマパーク建設で、結局は赤字経営で町の予算が穴埋めに使われています。問題は大資本の方にもありますが、「過疎だから」といって何でもまかり通ってしまう雰囲気を作った地域住民の意識にも問題があると言います。

筆者にもときどき講演の依頼があります。地方では珍しい漫画家という職業の上に、東京からわざわざ日本の端のほうの田舎に引っ越してきたせいでしょうか。しかし、講演という形式で人が聞くに値する話をする自信はまったくなく、それどころか、依頼してくる人が筆者の作品を呼んだ経験のない人が多いそうです。講演を依頼するのは小説家や、スポーツ選手、評論家、大学教授など、肩書きに対する盲目的な信用と卑屈さ、それに動物園の動物を見るような好奇心の表れだとしか思えないと、講演のたびに薄気味悪く感じられて仕方ないと言います。そうして引き受けた講演の話題は、「都会と田舎の比較について」・・・、地域に密着した話題ばかりで、知らず知らずのうちに限られた地方でしか通用しない思考になって、自分の世界が町単位でしか考えられなくなっているようにも思えます。これは個人の内側で自分自身が作り上げた精神的な鎖国で、目に見えないだけにタチが悪いことです。東京の知人に「この頃下川町が自分のすべてになっている気がして」と話したら、「それは下川脳ミソですね」と気味の悪いことを言われたそうです。そのような下川町での暮らしも1年半が過ぎ、実際に田舎といわれる土地で暮らして何がわかったのかと自問自答してみると、わかったことそれ自体は、コンビニで買った弁当の中にやたらとひょろ長い米粒が混入されているのを見つけたようなもので、何の価値もないことです。楽しかったか、楽しくなかったのか、それが一番大事なことで、すべてだと締めくくっています。