「そっと耳を澄ませば」2007年3月25日三宮麻由子

イメージ 1 目が見えない筆者によるエッセイです。目が見えないと大変だと思いますが、そのことで本当にたくさんの温かい心と出会うことができたと言います。美しい自然が見ることができなくても、視力ではとらえられない小鳥の声を聞き分け、森の深さを体で感じることもできたそうです。白杖で岩をたたいて歩き出そうとした時、ウグイスがその音に応えて鳴いたことがあります。最初はまさかと思いましたが、何度も確かめると間違いなく応えていました。その時の白杖で岩をたたく音の高さが、たまたまウグイスの反応を引き出すレベルであったのでしょう。ウグイスに返事をされたのは後にも先にもそれ一度限りで、たたいたのが他の岩だったり、白杖の種類が違っていたらだめだったかもしれず、この波長はたいへん微妙なもので、実際、そばにいた母親がやっても反応せず、再び筆者がたたくと反応したそうです。
また、鈴を鞄につけて歩くようになったら、すぐ前を行く人が半分くらいの確率で筆者をさっとよけてくれるようになったそうです。電車でもすぐに「どうぞ」と席を譲ってもらえたりして、しかも、ふだんなら声をかけずじまいで終わってしまいそうな若者や恥ずかしがり屋のおじさんまで、鈴の音を聞くとすぐに立ってくれるようになったそうです。
テレビでは「まんが日本昔話」が好きだったそうで、そこには普段の生活ではめったに手で触ることのできないいろいろな道具や空間が登場します。囲炉裏の火、鳥の声、鍬で土を掘る音など、その多くは効果音や大和言葉の語りで表現され、描写は信じられないくらい正確で、しかも絶妙だそうです。特に鳥の声にいたっては、夏の旅ならオオルリ、秋の野良仕事ならヒヨドリ、山奥の小屋ならハシボソガラスのように、季節や場所が音だけで正確にわかるものを、実に的確なタイミングで使っていたそうです。
花火も好きで、見えなくても音が大好きなのだそうです。手元の空気を食いつくすように燃える鉄砲花火、レガートでずっと歌い続けるような七色花火、現代音楽のようにリズムを超越した音が静かに変わっていく線香花火など、実は花火の音はそんなに単純ではないのです。一つの音の動きが作りだす音階を超えた自然の即興曲というか、音階で表せないからこそ、火薬が織りなす偶然のソロが無限にできるのです。パイプオルガンのコンサートに行った時にも、その音の中に花火の世界を発見して、すごく感動したそうです。音は音源から上がっていって、上の吹き出し口から出た後に音楽となって降ってきます。二階席で聞くと、上がってきた音は目の前の吹き出し口からすべて同時に放出され、まるで、音でできた大きな玉が空気中に拡散していくような感じなのです。花火も、下方の音源から空中へと広がり、空ではじけた時に一つの曲が完成します。いわばオルガンも花火も、肉体の内部で創造された音が、外に向かって発せられて初めて完成をみるようなプロセスを持っているように感じるそうです。
よく晴眼者から「今見ているのが闇だよ」と言われることがあるそうです。自分が眼をつぶった時を想像して教えてくれているのでしょう。しかし、見えないというのは、見るという感覚そのものが存在していないので、光が見えない面が強調されがちだけれども、実際には光も闇も含めて、明暗そのものを感じ取る意識がないと言った方が正確で、日常的には見るという意識は消えてしまっているそうです。しかし、見えないということは、そのマイナスのイメージとは程遠く、布団の中で光がない暗い中でも点字で本が読めたり、お風呂もトイレも電気なしで用が足りるので、省エネでもあるのです。だから眼で見える暗闇の怖さというのは感じてこなかったそうですが、ある日、道に迷って方向感覚も無くなった時、空気の冷たさと静けさが醸し出す雰囲気に、重苦しく地の底に引き込まれるような、目の見えない筆者にとっての暗闇の恐怖を感じたそうです。
小学校の時にいじめられたことがあるそうです。点字の教科書を破られたり、工作を壊されたり、靴や体操着を隠されました。それが高じて親の目に触れることになり、何日か休んで、それらの子供たちと冷却期間を置くことになりました。その時に励ましの手紙をくれたのは、そのいじめていた子供たちなのです。もしかすると彼らは、このような何もできない筆者と、何とかコミュニケーションをとろうとしたのかもしれません。彼らにとっては、実は大変気になる存在であったわけで、自分から積極的にコミュニケーションをとればよかったのかもしれないと考えています。
もし目が見えていたらどうだったでしょうか。人の助けなしに何でも出来て、知らない場所へスタスタと行けてしまったら、見知らぬ人たちのひたむきな援助の手で心を温めてもらう幸福を感じられたでしょうか。小鳥から森を感じるという素晴らしい感覚をはたして味わえたでしょうか。いつもいつも見えるようになりたいと思っていなければいられない人生より、見えなくて不便だけれど、これで十分幸せだって思える人生のほうが、ほんとうの幸せではないかと思うと言っています。失明でパニックになる自分をなだめ、手を取ってともに歩き育んでくれた人々は、この「関わる優しさ」を持って、筆者としばしば向き合ってくれました。そして、そんな優しさ、温かさに触れる時には、いつもたくさんの音が聞こえていたそうです。その多くは、生活の雑音に紛れて忘れ去ってしまっていた音だそうです。大自然雄大さや清らかな営みが見える自然界や小鳥の発する様々な音だけでなく、そこから聞き取った世界の動きそのものの音です。小さい頃の時間と共にあった音、激動の現代の自分に聞こえる音、そしてその音の奔流の中から再び静かに響いてくる地球の音など、それらは実に興味深いものだそうです。この本を書きながら、筆者は人間の心の音を聞こうとしました。そしてその音はいつしか、心して立ち止まればいつでも聞こえるくらい、はっきりと思い出されてきました。こんな音は、きっと誰の耳の底にも眠っているのではないだろうか。「関わる優しさ」を思い起こす時、それはきっと、背景音楽のようによみがえってくるに違いない。長い時間をかけなくてもいい、一瞬でも私と共に立ち止まっていただければ、この本から音を聞きながらみちくさを楽しみ、それぞれのアルバムを編んでいただければとても嬉しいと言います。