「語りかける花」2007年11月10日 志村ふくみ

イメージ 1 染織家で人間国宝である志村氏のエッセイです。山影の道で語りかけてくるよもぎ、れんげ、げんのしょうこ、いたどり、からすのえんどうなどの草や花から、無限の色を賜り、それを吸い込む糸で織ってゆく思いを綴られています。ものに触れ、ものの奥に入って見届けようとする意志と、それと同じ志を持つ表現者たちのことも書かれています。例えば法隆寺宮大工の西岡棟梁が、「木組は寸法で組まず、木のくせで組め」木は生まれながらに右、左にねじれる癖を持っていますが、寸法で組まずその癖で組むと左右のねじれがうまく組み合わされて狂いが来ないというのです。それは、糸にも全くあてはまると言います。さらに、木組は人の心組みだといいます。人の心組みは最も困難を極める仕事で、西岡棟梁は人前で決して恥をかかせず、たとえ失敗して行き詰っても、それが間違いだと決して言わなかったそうです。「そういう方法もあるが、他にこういう方法もある。それがだめならこの方法でやってみたらどうか。」と言うと、それでうまくいったら、次は向こうから聞いてくるようになるのです。一人ひとりの良いところを伸ばし、尊重する。それも木の癖と同じく、人の心の奥を読み取る洞察力、包容力の問題なのです。西岡棟梁が台湾で原生林に入り、高所に点在する檜を双眼鏡で見た時、青々とした若葉をつけているものと、枯れ死寸前というものがあったそうです。西岡さんは後者を選んで、現地の人は危ぶみましたが、検査してみると青葉が茂る前者は中が空洞で使い物にならず、後者は心材がきっちり詰まっていたそうです。心材が腐って空洞化すると木質部を養う必要がなくなり、若葉に養分がいきわたるので若々しい葉をつけるというのです。このことは人間にも当てはまると西岡棟梁は言っていますが、何とも穿ったおそろしいたとえです。
 繭や糸を扱ったり、植物を相手にしたりしていると、自然の奥深い息吹が感じられます。それがどこから訪れるのかもう少しはっきり知りたいと思っていると、それは日々の暮らしでも同じことで、いろいろな人に出会い、さまざまな事柄に遭遇すると、それにより育てられ、精神も感覚も鍛えられていくような気がします。どんなに目まぐるしく一日働いている人でも、その一つ一つに精一杯の思いを注いできている人は、器に盛り切れないほどの課題を与えられます。直観とは、自然の諸現象を単に漠然と眺めることではなく、注意深く見つめることであり、そうすれば自然はおのずからその秘密を打ち明けてくれます。自分が何かに心を奪われていて、見落としている現象なのです。今さら、六十の手習いなどといって、最初から出直すなど不可能なことだと決めてしまってはいけません。人生は六十より七十、七十より八十に素晴らしい秘密がありそうに思えます。
 経糸に青を、緯糸に赤を入れて織ると、青と赤が重なり、青でもなく、赤でもなく、やや紫に近い色があらわれ、それを織色と呼んでいます。さらに色を七倍に、たてよこ織り成せば無限の織色が生まれます。仮に経を空間、緯を時間とすれば、我々の日常もまた歓び、哀しみの織色です。記憶や夢に、もし織色があるとすればそれもまた織色でしょう。自然現象の中では、さらに神秘な織色があらわれます。晴れた日の海がエメラルドグリーンに輝くのも、群青色の海と、太陽の光の織り成す色です。京都の街を囲む山々もまた、春の霞に始まり、夏の驟雨、秋の霧、冬の時雨など、緑の遠山にうす青く水蒸気がかかり、或る日は灰色のヴェールが、或る日は薄紫の霧がかかり、遠近の山並みは暈繝ぼかしの玄妙な織色を呈します。それはまさにしっとりと潤いを含んだ日本的織色の世界です。色は混ざり合うことを拒み、互いに補色し合い助け合おうとしている色の法則性に従順でなければなりません。人もまた、他者との関わり合いにおいて他と混同することなく、互いに調和をつくり出してゆくことを示唆しているのかもしれません。
 緑と紫は、それを混ぜるとねむい灰色調になってしまいます。しかし、この二色を隣り合わせに並べると、視覚混合の作用で美しい真珠母色の輝きを得ます。緑が輝くのは紫によるのであり、紫が揺らぐような魅力を発するのは傍らに緑があるせいなのです。織りながらモザイクをはめ込むように並べていき、ある距離からそれを眺めると、色と色はごく自然に混ぜ合わせたように、やわらかい光を帯びていきいきと輝いてみえます。どんなに美しい色を混ぜ合わせても、決してこうはなりません。また、茜と紅は同じ赤系統の色ですが、一方は茜という根から取れた色であり、紅は花びらから取れた色で、根には根づよい芯のしっかりした生命を持つ、花びらは儚い、移ろいやすい命のもろさを持つ、それぞれの色調があります。この二つの色を混ぜ合わせればお互いは死にます。反対にこの主調を生かせば、色は輝きます。
 このように植物とかかわりを持つようになって、自然界には測り知ることのできない法則や秩序があり、我々にほんの一部を開示してくれていることを知りました。その扉は開くかと思えば閉じられ、その内奥は優美であるかと思えば、剛毅です。そうすると、次第に「色がそこに在る」というのではなく、どこか宇宙のかなたから射してくるという実感を持つようになりました。色は見えざるものの領域にある時、光だった。そして、光が見えるものの領域に入った時、色になりました。同じように、我々は見えざるものの領域にある時、霊魂であった。霊魂は見えるものの領域に入った時、我々になった、そう実感しています。そうでなくて、どうしてこれほど色と一体になることができるのでしょうか。自然の色彩がどうして我々の魂を歓喜させるのでしょうか。あの荘厳な夕映えの空を見た時、我々は死を怖れることなく大宇宙へ還ってゆくことを信じ、自然に帰依する思いをいだくのではないでしょうか。人間は大宇宙に生かされ、大宇宙は自分の中に存在する。その儚い個体にすぎない人間が、実は地球全体を新たに生み出す母胎となっています。このようなぎりぎりの結論を与えられた我々の生を今生でどう受け止めてよいのか、仕事の根底にこのことをしっかり据えなければならないと思います。
 私のこんな小さな仕事にも、語りかけてゆくものがあるとすれば、細胞が生き継いでいくように、善くも悪くも大変貌するであろう次の時代にさらなる叡智を持って生きてゆく若者に何かを託したい。現代にしっかりした根を持ち、その根から芽生えたものを疑わず伸ばしてゆく、それが自分の一生の仕事だと守り続けていゆくことが大切で、それがもしかすると美というものに結び付くかもしれないと結んでいます。