「男の選択」1987年1月20日 金森久雄著

 経済予測で有名な金森氏のエッセイです。
イメージ 1「選択の自由」を著した、ノーベル賞受賞者ミルトン・フリードマンは、資本主義経済が社会主義経済よりも優れているのは、何を生産し、何を消費するかを人が自由に選択できる点だと主張しました。筆者も戦争時の体験を引き合いに出し、食料切符、衣料切符をもらって配給されたものを消費するほかなく、兵隊は定期的に支給される編み上げ靴が大きすぎたり小さすぎたりしたそうです。足の方を靴に合せろと上等兵に怒鳴られる始末で、これではアメリカに勝てるわけありませんでした。
「わが家の男女同権」というコラムでは、奥さんとの出生年代の違いから、著者は法律に妻の無能力という条項がある旧憲法時代の教育を受け、奥さんは両性の本質的平等という条項が付加された新憲法時代に育ったと言います。新旧両思想が家庭内で対立して小風波を立てるかもしれないところ、あまりにも著者が何もやらないのに奥さんもあきらめて、一切を代行するような慣習ができたそうです。断固として何もやらないという既成事実を作ることによって、慣習が憲法に優越したのです。このような専制君主のような地位を確保したのですが、その代償として経済的主権は奥さんに帰すこととなりました。だから、金森家では政治的主権と経済的主権が分立することによって、平等が維持されるという理屈になったそうです。
 昭和61年には、日本のGNPが世界一となる可能性がある。しかし、それにしては少しも生活が良くなっていないと感じるのはどうしてだろうか?一つの原因は、アメリカの土地の広さが一人当たり12倍も違うので、一人当たりの所得が日本よりずっと低い人でも、広い庭のある家に住むことができるからではないかと言います。さらに、所得が高い割に生活が楽にならないのは経済政策が間違っているせいもあり、日本では食料品の価格が高いのです。国内生産保護の為に、牛肉や小麦、砂糖が安く国内に入ってきても、政府が中に入って国民に高く売るような仕組みを作っているからです。消費者が多数でも、農民は少数者だから、僅かの値上げでも農家の収入に大きく影響するので、農家が自分の利益を主張するのは当然のことなのです。すかし、日本の農業指導者たちは、政治力による米価引き上げに執着しすぎたのではないでしょうか。経済法則を無視して政治力を行使するとかえって、自分に不利益となるのが、経済学の教訓です。
 歴代の首相のうちで、池田勇人氏と田中角栄氏はともに経済に関心が深かく、池田首相は成長率や国際収支などマクロに詳しく、田中氏は具体的な数字に実に強いミクロ派だったそうです。田中氏は、演説で列島改造論を唱えて、国民を今すぐにでも自分の家の近くに新幹線が通りそうな気分にさせましたが、首相時に通貨が前年比20%、消費者物価が35%も上昇し、マクロ経済学には弱かったのです。これは第一次石油危機の影響がありますが、通貨量や消費者物価指数のようなマクロ指標を軽視したことは否めません。
「家庭菜園」のコラムでは、自宅のわずか三坪の菜園で作る野菜を例にして、機会費用という概念を考えます。その菜園からは食べきれないくらい大量の野菜が収穫できていますが、当時、新大塚にあった自宅は高価な土地で、野菜など作らなくともマンションを建てて家賃収入を得る機会を犠牲にしているものです。しかし、労働費用で考えると、野菜を育てている奥さんの費用(機会費用)はゼロなのです。それどころか、野菜の世話に忙殺されて、暇で百貨店に出掛けて洋服やハンドバックを買うという出費を防いでいるとも言えるので、労働の機会費用はゼロどころか、マイナスだとも考えられます。著者は、高い地価は、マイナスの労賃によって打ち消されてバランスが取れている、経済学はうまくできていると言います。
 筆者が若い時に後の生き方に大きく影響した本として「福翁自伝」をあげています。高校へ入る前に偶然読み、眼前が一度に開けるような気がしたそうです。緒方洪庵適塾で塾生が医学、物理学、化学などを夢中で勉強し、それだけでなくかなり乱暴な遊びもするのですが、戦争の暗く重苦しい時代の中、人生を明るく見えさせました。また、太平洋戦争中は、観念主義、ロマン主義が流行していましたが、福翁自伝の世界は全く違って、馬の爪を集めてアンモニアを製造した等、理化学、器械学、電気、郵便法・・・実学的な経験主義、現実主義的なところに感心、そして下級士族出身なのに渡航し、出世する。革命や詩人の本で感化されずに、これを読んだのは運が良かったと言います。
 最後に別荘生活です。週休二日制が導入されるにあたり、そのままでは土日を東京の自宅でテレビ見て無為に過ごしてしまうことを怖れ、東京から2時間で行ける伊豆高原に別荘を建てたそうです。そこにはテレビを置かず、海を見ながら、晴れた日には畑を作り、雨の日は本を読み、原稿を書こうという最初の構想でした。しかし、たまにしか行かないので、せっかく植えたナスやトマトの野菜の種が、猛烈な勢いで伸びる雑草に勝てないのです。であれば、雑草に負けない強力な植物はと考えてカボチャを植えたところ、これは成功しました。しかし、大きなカボチャがたくさんできたのはよかったものの、困ったことに食べる人がいないのです。戦争中の代用食のイメージも強く拒否反応を起こす人がいるくらいで、飾っておくうちに腐ってしまい、結局、雑草の植えるに任せて、それを鑑賞することになりました。テレビから解放されたいという理想もダメになり、最初の年末を夫婦で過ごすことになった際に、奥さんが紅白歌合戦を見なければ大晦日の気持ちがしないと主張したために、テレビを買うことになりました。それからの別荘の生活様式は一変し、正月三が日も炬燵にあたりながらテレビを見、夏は高校野球のとりことなり、東京にいる時よりもテレビを見る時間が多くなってしまったそうです。その後、周囲に別荘がどんどん増え、新しいそれらの人たちは、ゴルフやテニス、釣りなどに活動的で、著者のように別荘に来て炬燵にあたってテレビを見る人は稀で、日本経済の活力は衰えてないと感じたそうです。