「昭和が明るかった頃」 2004年11月10日 関川夏央

 私の一つ上の世代のことで、石原裕次郎吉永小百合の全盛期を知りませんでした。しかし、それが本題のように大きな意味を持つことを教えてくれた面白い本です。以下は私が気になったところの要点です。
イメージ 11962年から64年は、吉永小百合の全盛期となった。吉永小百合が体現したのは、戦後の安定の中でのかわいい生意気さ、または生意気を装ったかわいさだった。そこには50年代後半における石原裕次郎のような、反抗的態度の放つ危険な香りはなく、だからこそ中産階級の子弟たちが多くサユリストとなり、文壇の老作家たちからも愛された。「キューボラのある町」「赤い蕾と白い花」「若い人」「青い山脈」「泥だらけの純情」「伊豆の踊子」などが高い配給収入を上げ、「寒い朝」や「橋幸夫とのデュエット「いつでも夢を」もヒットし、石原裕次郎に代わって日活スターのエースの座につき、観客減少と無謀な観光事業投資で急速に経営悪化していた日活の延命を助けた。彼女は高度経済成長時代前半を象徴するスターで、明るい、そして安全な自己主張こそ民主主義であると観じた時代の申し子であった。
 同じスターでも石原裕次郎吉永小百合とでは、その体現しているものが全く違っていた。裕次郎1934年に生まれて少年として戦争と敗戦直後の価値紊乱期を経験し、戦後的秩序への反抗、大人たちの無節操な「転向」への軽侮が、同時代を生きる青年たちの共感を呼んだ。一方、吉永小百合1945年の生まれで戦争の影を背負っておらず、反抗的というのではないが、かわいく生意気でもある。典型的戦後人なのに戦前の近代文芸を信じている。老大家たちは石原裕次郎のような危険を感じることもなく、理解でき安心できる戦後青年像を彼女に見ることができた。彼女は、ときに「山の手の賢いお嬢さん」を、ときに「頑張り屋の勤労少女」を演じ、どちらのイメージも愛された。過労で体調を壊しても「大丈夫」と頑張る彼女の明るさと向上心は、まさに高度成長前期の時代精神を象徴する存在であった。1956年から58年にかけての石原裕次郎は、年長世代の価値体系を冷笑する強烈な批評性、それと裏腹の新しい価値を破壊的に建設するエネルギーを感じさせた。また日活映画は、その歴史を通じて基本的には禁欲的な態度を取り続け、旧来の恋愛に翻弄される受け身の女性像を否定する戦後性、敗戦によって根底から崩された男性の自己認識、いわば戦前性の回復、そのような一見矛盾する要素の統合への試みを、育ちの良い不良少年、石原裕次郎に託した。裕次郎のよく伸びた肢体と「自己表現する」多くの言葉によって行ったのである。一方、吉永小百合は、戦後著しく増加し大衆化しつつあった中流家庭のヒロインであった。役柄の上で彼女が性的な自由を盛んに口にしても、それはいわば明るく健康的な「副級長」の「口先開放」であると観客は承知しており、彼女はむしろ戦後的恋愛ではなく、戦後的な家庭のあり方を表現していた。そのようなイメージが、62年から64年という高度成長前期の日本社会に満ちた「一国社会主義」ならぬ「一国民主主義」の空気にピタリとはまった。その雰囲気を快く思った人々が「サユリスト」である。吉永小百合は賢い人間で、きちんとした子で、誰のところに行っても小百合スマイル。世の中がゴチャゴチャしている時に、ひとつもそれに傷つかない明るさや健康さという持ち味がうけた。ただ、彼女は変に必死なところがあり、十代の若い頃にはそれが似つかわしくあっても、高度成長で先進国の仲間入りしたこの時期には、その「必死な感じ」が一種の痛々しさ、ときには怖ささえ感じさせるようになっていた。それは彼女の責任ではなく、時代そのものの移ろいの結果であった。
大量生産と大量消費を両輪に進行する高度経済成長は、古物回収業者の姿を街頭から消し、家庭電化が家事労働の革命的軽減をもたらして余剰時間を楽しむ専業主婦たちを出現させた。それはテレビの黄金期の開始とともに、映画は娯楽の王者の地位をやすやすと奪われ、映画館の観客数は60年からの3年間で半分に落ち込んでいった。東京オリンピック1964年が日活の分水嶺で、翌65年から過剰投資の反動から成長率は鈍化しオリンピック不況に見舞われる。オリンピック需要にあおられて行った不動産投資とホテル経営が致命的となり、日活の業績は急速に降下し、わずか7年後の1971年にはロマンポルノ路線に転換せざるを得なくなった。
あの底抜けに明るい時代に抱いていた妄想が、まだ性欲とか名誉欲とかいうややこしい感情と縁のない無邪気なものだったことが、団塊の世代の強みなのかもしれない。ところが、その後さまざまな問題を考えるにつけ、日本社会の特質はまさに知識人と大衆との間に階級的障壁がなく、誰もが平等に知識的大衆であることだと分かってきた。典型的なエリートコースを歩んだ人でさえ、透徹した論理性とか、大衆を睥睨する高踏的な趣味や嗜好とか、信念に殉ずる潔癖さとかの、エリート知識人なら当然持っているはずの要素を持ち合わせていない。だから日本の戦後社会は、エリートが指導し大衆が從うパターンではなく、ありとあらゆる組織が全員参加型でわいわいがやがややりながら、発展してきたのだ。階級としてのエリート知識人が存在しないことの弊害や不利もあるだろうが、みんなが意見を持ち寄って少しずつ改善や改良を加えていく社会の方が、知識人の号令の下で大衆が機械の歯車のように動くだけという社会よりもはるかにいい社会だとは思う。このような全員参加型の社会は、エリートがエリートらしく仕事をすることができなくなってしまったことによる権力の空白の中でしか実現しなかった。日本の誇る東京帝大を頂点とする教育システムが、すでに戦前からエリート創出機能を失っていたことや、アメリカ占領軍の中での徹底的な財閥たたきなどが良い例であろう。だからこそ、戦後日本の最初の20年間は、知識人でもなく、大衆でもない、日本独特の知識的大衆が思う存分力を発揮して、世界経済史上類例を見ないような高度成長を達成できたのだ。
そのような、明るくひたむきだった昭和が、暗く陰鬱な時代に転換したタイミングを、筆者は吉永小百合が主演した「愛と死をみつめて」がヒットした1964年~65年をピークに、翌66年にはすでに暗転していたと言う。「なぜ、まさにこの時期に日本は暗くなったのか?」あんなに明るかった時代が、突然こんなにも暗く惨めな時代に転換してしまったきっかけを正確に把握することは、今我々が生きている社会をもっと明るくするために絶対に役立つはずだ。