「梅原猛の授業 仏教」 2002年2月5日 梅原猛著


 イメージ 1梅原氏が、弘法大師以来の伝統がある東寺の境内にある中学校で12回にわたり仏教の講義をした話です。なぜ宗教が必要なのか、文明と宗教の関係などを、たいへんわかり易いたとえで説明しています。
 密教の時間では、実際に東寺の講堂を見学します。東寺は一度火災に遭ったものの、仏像はほとんど無事で、千二百年前に空海が心血を注いでつくったものがそのまま残っている、もう奇蹟としか言いようがない貴重なものだと教えます。仏はお寺に行って注意してみればすぐにわかるようになるそうで、悟りを開いた仏様である如来は、髪の毛がカールしている天然パーマで、悟りを開いた人には身を飾る必要がないので装飾具を一切つけずに裸のままきらきら輝いています。ただ、現世肯定の大日如来だけが王冠を被り、天衣や種々の装飾具を纏っています。指の形を見れば如来の形がわかり、右手を挙げて「おまえは苦しんでいるが大丈夫だ」となだめる施無畏印、左手は前に突き出してものを与える与願印をとっているのが釈迦如来です。両手を前で組んで掌に薬壺を載せているのが薬師如来、両手の親指と人差し指で丸い印をつくっているのが阿弥陀如来(瞑想、説法、来迎の三つの形がある)、大日如来は左手の人差し指を挙げてそれを右手で包む忍術使いのような智拳印(智の力)を取る金剛界大日如来と、右手と左手の指を丸く組み合わせる胎蔵界大日如来があります。これから悟りを開いて如来になる菩薩には、観音、勢至、地蔵、普賢、文殊菩薩などがあり、如来と違って普通の人間の姿をして装飾具をつけています。如来や菩薩を守る仏である明王は、日本では不動明王の信仰が盛んです。平将門の乱の時に京都神護寺不動明王が関東に借り出され、そのまま関東に貸し出されたままになっているのが成田不動さんだそうです。知りませんでした。明王如来や菩薩を守る仏なのでたいへん恐い顔をしています。多くが仏教以前のバラモン教の神様が仏教に入った天部には、四方を守る四天王の多聞天持国天広目天増長天のほかに、帝釈天梵天、弁天や大黒天などの福の神もあります。東寺の講堂には21体の仏像があり、如来5体、菩薩が5体、明王5体、そして天部が6体とまさに仏像のオンパレードで、世界を表現した曼陀羅を実物として間近に見ることができるのです。その世界の真ん中にいるのが大日如来で、これは宇宙の本質です。ただ、密教では人間もまたひとつの小宇宙(密)で、自分が目覚めたならば大日如来と一体化できると考えました。
 梅原氏は哲学者の立場で来世や魂の不死などは認めず無心論者の立場でした。個体の生命は死後は無に帰します。ところが遺伝子から人間を見れば、生きとし生けるものの生命は遺伝子によって過去から未来へ永遠につながっています。遺伝子は、自己を生き永らえさそうとする自利の要素と、自分を犠牲にしても子孫を残そうとする利他の要素をもっており、鮭が子どもを産んで死ぬために遠い大洋から帰ってくる、父母が子どもを養うためにどれくらいの苦労をしているかのことからもわかります。梅原氏は、このように考えて若き日の無神論を克服したそうです。
 最後の授業の直前、偶然にアメリ同時多発テロが発生しました。東西冷戦のようなイデオロギーの対立の時代は終わったけれども、これからはキリスト教文明と、イスラム教や中国の儒教文明の衝突が世界を大きく動かすようになります。ユダヤ教もそこから枝分かれしたキリスト教イスラム教も、もともとは異母兄弟のようなものですが、このような他を認めない一神教同士の対立が起こっています。さらに、グローバリズム、露骨な資本主義の支配によりお金がまるで神様のようになって、格差が急速に拡大しています。このような対立を克服するのは、一神教の正義という思想の元にある自己の欲望を絶対化する思想を反省して、憎悪の根を断たねばなりません。もうひとつ、正義よりも寛容の徳、慈悲の徳を大切にする多神論が求められます。つまり、多神論である仏教の自利利他の精神で欲望を抑え無限の学問を学ぶことが必要だと梅原氏は締めくくりました。