「隠された十字架」1981年梅原猛著

 イメージ 1法隆寺は再建されたもので、聖徳太子の怨霊の鎮魂の寺だと主張してます。学生時代にその大胆な仮説に驚くとともに、様々な古典や史料、論考などを論拠として説得力ある話にずんずん引き込まれました。法隆寺は、最古の木造建築として貴重であるだけでなく、その建造方法には飛鳥や白鳳時代の人々の驚くべき技術が使われていたことに大きく関心ありました。
しかし梅原氏は法隆寺の見方を全く変えてくれました。藤原氏が仏教の保護者であった蘇我氏に取って代わろうと聖徳太子の子孫および蘇我氏を滅ぼしましたが、祖先の鎌足こそ聖徳太子の子孫を惨殺した入鹿を誅伐した人物であり、聖徳太子の意志を継いだ仏教の保護者であるという印象を与えるように歴史を改ざんしたというのです。聖徳太子の霊鎮めである飛鳥の橘寺を、聖徳太子の本拠地である斑鳩の地につくることは、藤原鎌足も山背皇子殺害に一役買っていたとすればより一層重要となってきます。橘三千代、元正女帝、光明皇后などの藤原不比等のまわりにいた女性たちが法隆寺に数多くの財宝を贈ったそうです。
法隆寺には常識的にはおかしなところがあります。たとえば、中門の正面の柱の数が普通は奇数なのに、偶数であるために正面なき門であると共に出口なき門でもあるとします。ここに太子の霊を閉じ込め、怒れる霊の鎮魂をこの寺において行おうということなのです。
金堂には普通一体の本尊が、法隆寺には薬師、釈迦、阿弥陀の三体います。法隆寺の金堂は、太子一家のイメージと死のイメージに満ち満ちていると言います。
そして衝撃的なのは夢殿です。建物は西院だけで十分なのに、もう一つ夢殿がある東院のような大きな伽藍をなぜ必要としたのでしょうか。それは、再び聖徳太子の怨霊が再現したからです。天平9年(737年)に大黒柱の藤原房前が流行の天然痘で亡くなり、それに次いで藤原四兄弟の他の3人まで亡くなってしまいました。夢殿ができたのはその後で、中門と同じように回廊が霊魂の逃亡を防いでいる形になっており、その中には1200年に渡り開けることを禁じられていた秘仏が隠されていました。日本の古美術に深い関心を持っていたアメリカのフェノロサが、明治17年に明治政府の命令書を持ってこの寺に訪れました。秘仏を見たらたちまちのうちに地震が起こり寺は崩壊するであろうという伝承を信じて、寺僧は容易に厨子の鍵を渡しませんでしたが、フェノロサは無理に鍵をとって厨子を開けました。僧たちは天変地異が起きるに違いないと一斉に逃げ出したと言います。そこには体一面に木綿の布を巻いた背の高い仏像がありました。なぜこのようにまで厳重に秘仏にされなければならなかったのでしょうか。その救世観音はモナリザのような不思議な微笑みをたたえ、自ら舎利瓶を持ち、体が空洞で背や尻が欠如して、光背が大きな釘によって頭に直接打ちつけられていました。仏像の中を空にしたのは、人間としての太子ではなく亡霊のように立ち現れた姿を表現しようとしたのではないか、仏像の頭の直後に太い大きな釘で光背が打ち付けられているのは呪詛の行為に似ています。八角形の御堂を建て、廻りを回廊で囲んで出られなくし、中の厨子は二重の扉で密封して、さらに御身体は中が空っぽなので出るに出られない、そして頭の後ろには釘を打ちつけ重い光背を載せているので、いくら執念深い太子の怨霊でも重い光背を背負ってさまよい出ることはできないであろうと考えたのでしょうか。この頃に律師となってこの夢殿建立に関与したかもしれない行信は、最後には下野の薬師寺に“厭魅の罪”つまり、人型を作って釘を打ちこむ呪詛を行った罪で流されて失脚したと「続日本紀」に書かれています。
常識や通念に捉われない大胆な仮説と論証・考察は多くの学者を驚かせた一方で、考古学・歴史学の立場からは厳しい批判や反論が出されました。謎の多い法隆寺における建造目的については今日においても様々な議論が交わされているそうで、完全な論証はなく推測の域に留まるというのが現状だそうです。しかし、この本を知った上で法隆寺を訪れば、また違った感覚で過ごせるのではないでしょうか。