「司馬遼太郎で学ぶ日本史」

司馬遼太郎で学ぶ日本史」磯田道史 20175
イメージ 1 司馬氏の作品はあくまで文学であって歴史そのものではなく、日本史を知るためには、なぜこういうことを書いたのか、そこにどういう史実のつながりがあるのかを補って読む必要があるとのことです。
 司馬さんは、「なぜ日本は失敗したのか」「なぜ日本陸軍は異常な組織になってしまったのか」という疑問から、その原因を歴史の中に探っていきました。代表作品の「坂の上の雲」を評価する多くの人は、明治はいい時代だったと言いますが、明治の人が目指した坂の上の雲はいくら登っても掴めないもので、登り詰めた坂はやがて下りになり、昭和という怖ろしい泥沼が待っていたのです。
 明治維新徳川幕府は倒されましたが、同時代の海外と比べてみれば、江戸時代の日本は豊かで安全、人権もかなり守られていた。例えば、江戸時代には女の人が伊勢神宮に一人旅できるほど中世までは有り得なかったほど治安が良かったのです。しかし、そのような平和な時代が200年以上続いて武士は日本の農業生産高の4割も家禄として受取っていましたが、武士の意識から戦国の気風も失われて最新式のライフル銃や大砲を持った軍隊に太刀打ちできなくなっていました。もはや無力だとわかってしまった武士では国を守れないし、それに世襲の権利を与えることにも疑問を持たれ、天皇を中心とする新たな政権を作って攘夷を実行しようという流れになり、封建制を否定する革命が始まりました。ただ、江戸時代という実に長い期間をかけて培われてきた高い民度と知的レベルは引き継がれ、さまざまな遺産が明治という時代に理想として実ったのです。そのようにしてできた明治国家には「弱者の自覚」があり、アメリカに留学していた秋山真之が「自分が一日休むと、日本の海軍は一日遅れる」、福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」というように、一人ひとりが国家レベルの問題を自分の問題としてとらえるほど意識が高かったのです。現代の日本人が、格差社会、競争社会の中で生きていくことに精一杯で、「政府になんとかしてもらって・・・」というようになってしまっているのと正反対です。
 明治時代の日本の軍隊は、世界で最新の一番いいものを開発したり手に入れたりして戦おうとしていました。ところが恐ろしいことに、その装備のほとんどをモデルチェンジせずに敗戦までいってしまったのだ。第一次大戦だけでも、最初は歩兵の戦いだったのが、ほんの数年で戦車が登場し、気球で偵察していたものが複葉機の空中戦闘になるような急速な変化が起こっていました。だからこそ変化に対応できる柔軟な頭を持った人が軍事組織に必要だったのです。その点で「花神」に取り上げられた大村益次郎は、「思想」から大きく距離をとり、現実的にそれが効くか効かないか、便利か不便かということだけで物事を判断できる人物で、そうしたリアリズムや合理性というものが、最終的には勝利を収める、時代を動かすと司馬さんは考えたのだろうと言います。
 司馬さんは、日本国家が誤りに陥っていく時のパターンを何度も繰り返し示そうとしました。例えば、集団の中に一つの空気のような流れができると、いかに合理的な個人の理性があっても押し流されてしまう体質や、日本型の組織は役割分担を任せると強みを発揮する一方で、誰も守備範囲が決まっていない想定外と言われるような事態には弱いこと、情報を内部に貯め込んで組織外で共有する、未来に向けて動いていく姿勢をなかなかとれないといった日本人の弱みの部分を作品中に描き出しています。日露戦争の折、乃木希典率いる軍は203高地に突撃を繰り返して大量の屍の山を築きました。戦術的には明らかに誤っているのに決行されたにもかかわらず、それを悲壮な美談としてとらえる国民も当時からいました。これが昭和初期の病につながる病根だったのでしょう。ナショナリズムの暴走です。生まれた家柄を誇りに思い自慢する、何ら自分の力で手に入れたものでないのに他の家をバカにする、その「自分の家がかわいい」と言う感情が「自分の国がかわいい」と国家レベルまで拡大したものがナショナリズムで、高い次元の愛国心とは違います。その「お国自慢」暴走の具体例が日露戦争の勝利で日本人を調子狂いにさせてしまったことで、戦争継続能力の尽きた日本がぎりぎりの条件で講和を結んだことに対して、それを知らない民衆が「日比谷焼打ち事件」で戦争継続を叫び、各新聞も煽り立てたのです。日本人は「合理主義」の対極にある「前例主義」という性質を持っており、日露戦争の勝利も「天佑があるから日本軍は士気が高く、兵器兵力不足を補って勝てる」という前例にされてしまいました。日露戦争後、日本は七つの海に植民地があるわけではないので海軍をいったん縮小するべきでした。朝鮮半島とのかかわりも、日露戦争勝利でロシアの進出を止めることができたから、もっと穏やかで平和的なやり方があったはずです。しかし、5年後には朝鮮半島を完全植民地化し、昭和に入ると満州国建国や中国や東南アジア各地に侵攻していきました。近代日本のナショナリズムは、隣国などの他者を貶しめて優越感を感じる「歪んだ大衆エネルギー」も含んでいたのです。
 明治の国家モデルの目標は、1981年にイギリス流の国会と憲法制定を急いだ大隈重信伊藤博文らが追放して、その頃急速に台頭していたプロイセン・ドイツ型の国家作りに舵を切りました。帝権とそれを支える軍や役人が、国会の議決無しで国政を行い得るというもので、天皇の国家がドイツ服を着て大日本帝国を名乗ったのです。ところが、この服に合わせた軍隊靴が、右足は陸軍、左足は海軍の、一度履いたら死ぬまで踊り続ける「赤い靴」だったのです。日本は軍事国家になって踊り続け、両足を切り落とされるまで止まりませんでした。これは単にドイツ文化の罪というわけではなく、ただ一種類の文化を濃縮注射すれば当然薬物中毒になるということです。軍は統帥権を盾にして幅を利かせ、明治には元老がブレーキをかけていたタガもはずれ、天皇には結果だけを報告するだけで暴走しました。軍縮を進めれば、当然、艦長に出世できるはずのポストはなくなり、多くの軍人は退役させられて収入が激減してしまいます。そもそも日露戦争で軍が勝利したからこと一等国になったのだという考えに、国民も傾いていったのです。
21世紀に生きる君たちへ」で司馬さんが伝えたかった主旨は、日本人の最も優れた特徴である相手をおもんばかる「共感性」を伸ばすことと、「自己の確立」です。グローバル化が進んで、異なる価値観を持つ国家や人間どうしが向き合わざるを得なくなる局面が増える時代で、相手よりいかに優位に立つか汲々とするより、相手の気持ちがわかり、どんな文化の違う人たちにも適応して理解することが重要となるはずで、共感性が高い日本人の能力が活きてくるのです。そして、国家が命令を下して、みんなが「一億玉砕」を叫んで戦争に行く、付和雷同してついて行く日本人の姿を見た司馬氏は、自分の考えを持って行動する人間が日本の歴史を動かしてきたのだという事実を小説により伝えたかったのです。坂本龍馬のように、周りがどうであれしっかりと自己を持って時代を動かした人や、秋山真之のように一身でもって日本全体を背負うほどの覚悟を抱いていた人、こうした「たのもしい」人物を司馬氏は愛し、その肖像を描いてきたのです。