「フランス料理の手帖」

イメージ 1辻静雄氏の本を20年以上ぶりで読みました。
なにせ読み易い!無駄な言葉がなく話がどんどん展開されるからでしょうか。頭脳明晰なことは当然のことながら、元新聞記者だから文章が洗練されているのも当然かもしれません。
解説の丸谷才一氏が言うには、辻静雄氏は日本人の食生活を、殊に洋食の普及という点で変容させた中心人物の一人で、具体的にはフランス料理を本格的に移入し、彼が学んだ成果は彼の著作とあべの辻調理師専門学校の卒業生によって、日本のフランス料理を変貌させてきた。それが本格的なのは、辻氏が欧米の一流店をくまなく食べ歩き、感心した店の主人や料理長と親しくなって秘訣を学び、さらにはその店に自校の卒業生の俊秀を住み込ませて料理法を習得させていることや、料理法の古典をもれなく買い集め、読破し、実際に料理を作って研究を積んだことで、これだけでも全人未踏の偉業なのであるが、それに留まらず、料理と文明の関係も学び取り、我々に詳しく紹介した。それは葡萄酒や食器、料理屋の佇まい、給仕人の態度、食卓の会話、食卓で聞く音楽から趣味の社会学、快楽についての人間論にまで至る。これだけもの範囲のことを、具体的な料理を中心にして語り続けられることができるのは、高い知性と優雅な品格の持ち主にして初めて可能なことであって、現代日本は、フランス料理についての最上の教師を得た。同時に幸運だったのは西洋人も同じで、日本を訪れた料理人たちや食通を選りすぐりの日本料理の店に連れて行き、急所を得た説明をして多大な刺激を与え、全世界的に日本料理の名声を高めることに多大な貢献をした。料理以外の分野の他の誰が、官の力も借りず、大企業にも属さずに、この東西料理の交流に匹敵するだけのことをしたであろうか、と絶賛しています。木村尚三郎氏も辻氏を学のある料理人であり、料理する知識人だと。料理する知識人は今日少なくないが、それがプロで、しかも超一流の料理人となると辻氏の右に出る人はいないと同じように絶賛している。
 辻氏自信は、自らをフランス料理の研究家で、現在の状態ではあまりたいしたことは知らない、とても余裕のある「通」などと言えないと謙遜している。そんな彼が、味の批評家として手強いと感じたある編集長の逸話を書いている。この人は真っ先にマキシムから評価の印の王冠を外したことで知られている。ある友人に招かれて、奥さんの心づくしの手料理をご馳走された。特にトーモロコシ入りの野菜のごった煮のようなポタージュがことのほか美味しく、よくぞ素人でこれだけの味が出せたものだと内心びっくりしながら食べていた。ところが同席したこの編集長は「このポタージュには何かが欠けている。決め手の味がトウモロコシで踏み潰されてしまっているようだ。」と言い出した。辻氏はそんな筈はないと奥さんを弁護する。それでも編集長は言い張り、「御馳走してもらって申し訳ないけれど、やはり何かが足りない。ちょっと奥さん、お酢をくれませんか?赤のワインヴィネガーでもいいし、リンゴ酢でもいい。」怪訝に思いながら、辻もつられてワインヴィネガーを数滴垂らしてみる。そう言われればそんな気がしないでもない。もう少し酢を足してみる、そう大分良くなる。「これなら最初からトマトを少し多めに入れたら」と言うと、編集長は「トマトはこれだけ煮込んだら甘くなってしまうからダメだ。」そのうちに主人が栓を抜いた赤ワインを、ゴボゴボと口の中でころがしてから、まるで苦虫を噛み潰したような顔になって「これが○○の酒だって!聞いてあきれる。もっといいのを出してみろよ。」と言い出した。主人はお前さんにはかなわないといいながら、ポール・ボキューズに貰ったというボージョレを開ける。それをやにわに口に入れるなり、目の玉の飛び出るほど驚いた表情になって「いいなあ!やっぱりいいなあ!」とつぶやき、ちょっとごめんよと言いながらこのボージョレをさきほどのポタージュにさっとかけてかき回してしまった。それで一口食べるなり、御覧のとおりとみんなに味わってみろと言う。あんなにいっぱい入れて、あまりにもワイン臭くならないかと余計な心配をしながら食べてみると、その酸味のききかたのズバリ適量なこと、舌を巻くほどだった。 好き嫌いという言葉がある。これも気の持ちようということもある。仕事柄、浮き足立ってしまっていたが、えてしてものの評価などということはこんなことになりがちである。食通なる言葉ももっと科学的な資料によ判断の上で下されなければならないが、食通と呼ばれる本人がそれで嬉しいなら仕方がない。手のつけようがないこと、言うまでもない。
 以下、辻氏がフランス料理も特別視するのではなく、節度を持った常識の延長で考えればよいと言ってくれていることなど、語った部分です。
「若い学生諸君が就職時に、会社が自分にとってどんなことをしてくれるか尋ねるそうだ。しかし、一体、若い人間がどんな能力があると思うのだろうか。能力は自分が持っているものを考える筋合いのものではなく、人が測定してくれるものなのだ。自分の能力を過信、錯覚するからこそ、努力が報われないときに人のせいや社会が悪いと思ったりする。
 日本ではフランス料理というと形式ばったテーブルマナーなんか覚えてからでないと恥をかくように言われている。そのようなバカげた行儀作法もまだまだ新しく、つい明治の初期まではパリでさえもそんなやかましいことは言っていなかった。それに、今でも西洋の国を旅するとみんながどれほど自由に楽しげに飲み食いしているかお分かりになるはずである。だから、テーブルマナーなどまったく習う必要はなく、少し目先の利く人ならば、テーブルに着いて向こう三軒両隣を観察すればすぐに察しがつくに決まっている。また、普通のフランス人が食べている料理は、大きな鍋の中に肉の塊を入れて、野菜も塊のまま入れ、水を取り込み、色々の香辛料を入れて、蓋をしないでとろ火にかけて、コトコト8時間以上も煮込んで食べるようなものである。美しいお皿に綺麗に盛り付け、写真映りばかり良くて実際美味しくない、そんなくだらないことを勉強するのに憂き身を費やしているご婦人が多いのも情けない。
 どのワインがどの料理に合うかということも、とどのつまりは、その場限りのもので、ある時、誰かが料理を作り、その料理とワインがマッチして美味しかったと思うこと以外にワインの存在理由はない。ここのところを多くの人たちは誤解しているように思われる。
 知ろうという欲求、美味しいものがどこにあるのか知りたいという気持ち、何を犠牲にしてでもそれを食べてみようという意志がなければ、美味しいものにはあやかれない。いったい、もっと美味しいものがあるかもしれないということを考えてみない食通なんて存在するのだろうか。僕はフランスへ行けば仕事の性質上、フランス料理を毎日食べる。実を言うと、毎日、毎食、楽しくてしようがないくらいだ。しかし、本当に楽しくなるためには、やはりいくらかの年月が必要だった。味がわかるというコト、これは人に説明するような性質のものではないし、下手をするとウヌボレにつながってしまう。」