「救命センターからの手紙」浜辺祐一

「救命センターからの手紙」浜辺祐一
イメージ 1テレビでよく見る救命の実態です。患者の立場としてたいへん参考になりました。筆者の話で印象に残ったところを抜粋します。
乱暴な言い方を許してもらえれば、現代では止まった心臓を動かすことは簡単にできる。アドレナリンを中心とした23の薬剤と、除細動器と呼ばれる電気ショックを心臓に与える器具さえあれば、なんとかなるのである。心臓は、そういう意味ではとても強いのだが、脳はそうではない。特に大脳皮質は酸素不足に対して本当に弱く、ほんの2030秒間、血の巡りが途絶えただけでも大脳皮質の脳細胞の動きがダウンして意識が無くなってしまうし、たかだか5分間ぐらいでも酸素が全く届かないと、その脳細胞は死んでしまうと言われている。
 私が救急救命センターに籍を置いてから十年は経ったが、その間に1500人近い心肺停止の患者さんを診てきた。そのすべてに対して心肺蘇生術なるものを行ってきたが、心臓を再び動かすことに成功したのは200人弱といったところだ。そうして心臓を動かし続けることができた人、つまり命を取り留めることのできた人は36人、心肺停止患者さんの23%だった。さらには、その中で元の生活に戻れるようになったのは6人(0.4%)である。今テレビではやりの救急救命のドラマのように、心肺停止で担ぎ込まれてきた患者さんが、社会復帰のために笑顔と花束で退院していく、そのような奇蹟が6人もいたのだ。しかし、ということはその他の命を取り留めた30人はどうなったのであろうか?いわゆる「植物人間」と呼ばれる状態に陥ってしまったのだ。
 その1500人にものぼる症例を詳しく検討すれば、蘇生が絶対に不可能である場合や、たとえ心臓を動かすことに成功しても、意識の戻ることが期待できない場合がどういったケースなのかわかるのではないか、あるいは社会復帰された方の条件を検討すれば、蘇生努力すべき症例かどうかをはっきりと区別できるのではないかと、そうすれば植物人間をつくってしまう事態を避けられるのではないかと思うかもしれない。確かに、心肺停止が確認されてから長時間、たとえば30分以上を経過したら蘇生が困難であり、また仮に心拍が再開しても意識が正常に戻る可能性はゼロだと断言してもよいかもしれない。しかし残念ながら、患者さんが本当に心肺停止してしまった正確な時刻というものは、実は誰にもわからないのだ。同じように、社会復帰された方々を調べてみても、何が幸いしたかということについてはっきりと共通した条件は導き出されないのだ。だとしたら、可能性が低くとも、奇蹟を起こした6人を思い浮かべながら蘇生術を施さなければならないということになるのだ。過去のデータによれば、心肺停止で担ぎ込まれてきた患者さんのうち、再び帰らぬ人のグループに入ってしまったのが98%、植物状態に陥ったのが1.6%、そして見事社会復帰を果たされたのは0.4%ということになる。しかし、過去のデータをどれほど積み上げても、正確な心肺停止時刻がわからない以上、たった今担ぎ込まれてきた心肺停止の患者さんについて、何かをはっきり言うことは誰にもできない。いや、社会復帰できる可能性はゼロではないこと、それだけははっきりしているのだと言うしかないのだ。植物状態に陥ってしまうのか否かを確実に判定できない以上、まず救命を図るしかない。医者としても、やるべきことをすべてやって、その結果としてやっぱり死が訪れるのであれば、医者としての納得が得られる。もし心肺停止の原因がクモ膜下出血であれば、一時的に心臓が動き出しても短時間のうちに確実に死が訪れる。そのことを承知している医師は、そのような患者がクモ膜下出血であることを期待することもある。十分に手を尽くした上での安らかな死を迎えてくれることを望むのだ。
 救命救急センターは、本来は若年者や生産年齢にある患者、すなわちこれから人生を歩まなければならない若者や、一家の大黒柱と呼ばれる働き盛りの人たちのために設置されているのである。末期ガン患者や、老衰としかいえないような高齢の心肺停止患者は、残念ながら救命救急センターの対象とはならないはずである。」 
 しかし、家族のエゴで運び込まれるケースもある。
「大往生とは、家族みんなに見守られて、畳の上で、苦しむことなく、眠るがごとくにこの世を辞していくものではなかったのではないか。それを、たとえ寝たきりのお年寄りであっても、とことんやるべきことをやって、それでもダメだったら、それこそ寿命だとあきらめる、そのように考えている家族も多い。しかし、救命措置をとことんやり続けると言うことは、遺される側、見送る側の、そして医療者側の、浅はかな自己満足にしか過ぎないのではないか?骨の弱った高齢者は、心臓マッサージをすれば、肋骨が折れる。「とことん手を尽くす」というのは、とことん「痛めつける」ということと紙一重なのだ。救急救命センターはいつもぎりぎりで受け入れているところに、そのような患者が運び込まれたら、助かるかもしれないのに、受け入れ能力一杯のために搬送を断られてしまう患者さんたちはどうなるのであろう。」