「宇宙からの帰還」

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 宇宙飛行士は、エリート中のエリート、勉強も運動もすべてにおいて卓越した者の中から選抜されて生まれる。そのような彼等がその後の人生でどうなったのか?政治家か事業経営者か、何をやっても成功者となっているに違いない、普通はそう考える。しかし、彼らのその後で圧倒的に多い職業は、以外や牧師なのだ。卓越して優秀な彼らをそのような行動に駆り立てたものはいったい何なのか?彼らは宇宙でいったい何を見てきたのであろうか?徹底的に物事を探究してルポする立花隆による名著です。
 人間は宇宙のような酸素がない場所では生きていけないし、酸素があってもこの気圧の下でしか存在できない。また、宇宙空間自体は生命にとって冷たすぎ、太陽輻射はあまりにも熱すぎる。もしこの20キロの厚みの大気がなければ昼は灼熱地獄、夜は寒冷地獄となり、太陽風も直撃するし、紫外線も防げず人間はとても生きていけない。アポロ11号が月時間では47分しか滞在しなかったのは、早朝に着陸して午前中の早い時間に帰還し、月面上の灼熱地獄を避けなければならなかった。さらに着陸予定地点が岩だらけで避けなければいけないために、そこを飛び越して向こう側の平坦地に辿り着くまでに大量の燃料を使い果たし、あと20秒で着陸は中止される、かろうじての成功だったのだ。そして、宇宙船の噴射の加減が少し間違うと、違った方向に飛んでいってしまい、二度と地球に帰ってこられなくなるかもしれない。そのような非常にデリケートな条件の中で、奇跡的とも言えるほどの困難を克服して宇宙に飛び立っているのである。
 この本で宇宙飛行士が語ったことは、いずれも安易な総括を許さない、人間存在の本質、この世界の存在の本質にかかわる問題で、彼らの体験は我々が想像力を働かせれば頭のなかで追体験できるような単純なものではない。彼等が強調しているように、それは人間の想像力をはるかに超えた、実体験した人のみがそれについて語り得るような体験だと言います。月面ではクレーターや谷の一つひとつの造作が大きく、驚くべき巨大なパノラマをくり広げていく。クレーターの大きなものは日本列島を横にまたぐくらい大きいし、富士山より大きな山はいくらでもある。そして、そこには生命のかけらも観察することができない。生命の色も何の動きもなく、まったくの無言、静謐で、人を身震いさせるほど荒涼索獏としている。しかし、それにもかかわらず人を打ちのめすような荘厳さ、美しさがあり、宇宙飛行士は自分のすぐそばに神がいると感じた。宇宙から美しい地球を見ることを通して得られた洞察の前に神の存在についてのあらゆる嫌疑が吹き飛び、神がそこにいると如実にわかると言うのだ。
宇宙飛行士にインタビューしながら、立花隆も自身で宇宙体験がしたいと痛切に思ったそうです。彼らと話せば話すほど、写真やテレビや活字で伝えられているものと実体験がどれほど違うかがよくわかるからだそうです。そして、自分のパーソナリティからしてとりわけ大きな精神的インパクトを受けるに違いないと、その時自分に何が起きるのだろうか、それを知りたくてたまらないと言っています。やがて人類の宇宙への本格的な進出時代が始まるだろう。人間の肉体がこれまで知らなかった宇宙という新しい物理的空間に進出することによって、人類の意識がこれまで知らなかった新しい精神的空間を手に入れるであろうことは確実だろう。立花隆はさまざまな仕事をしてきたが、この宇宙飛行士とのインタビューほど知的に刺激的であったものは数少ないと言います。本書の読者は、宇宙飛行士たちが長く胸に秘めていおいた本音のメッセージを世界最初の受け取り手となるわけです。一つ一つのインタビューが実現への苦労を忘れるほど面白く、つい読み過ごしてしまうような軽いタッチの短いセンテンスのなかに、驚くほど深く、スケールの大きなメッセージが込められていたりします。それができるだけ多くの人のもとに届き、できるだけ深いところでその人を刺激することを願うと、立花隆は締めくくっています。
宇宙の真理を本尊とする大日経などの仏教、インド哲学に興味がある私としては、オカルト的な意味ではなく、人間の英知を超えた存在、自然というか、宇宙の真理というのか、そのようなものを古来から神として考えてきたのではないか、それは登山をして人為から遠く離れた高山に登った時にも感じるものに通じるのではないかと思う次第です。この本を読んだときから、そういうことを考えながら山に登っていました。