「里海資本論」2015年7月10日 井上恭介

イメージ 1「過疎や高齢化の問題は解決できない」とか「市町村の消滅の危機」、「地域経済の活性化は不可能だ」と言っていた人は、たいてい近視眼だった。広島湾ですくすく育つカキのことを考えて欲しい。海のミルクと称される栄養豊かなカキは、広島湾に流れ込む太田川からの富栄養化物を「たべて」育つ。ということは、上流の「里山」だ豊かでなければならない。目の前の山を見て、「なんにも使えない」といっていると、山の環境は悪化していく。間伐しない山の中は光が差し込まない。人が始終山に入り、下草を踏みつけたりしながら山菜を採ったり、マツタケを探したりすることが、山の自然を活性化させる。そうして「元気になった山」から川に流れだす栄養は、豊かで健全になる。それを食べたカキは、太っておいしくなる。この太田川100万都市広島の真ん中を6本の川に分かれて流れており、都会に関係ないわけではない。都会に住む人も、それほど意識していないとはいえ、川の環境を気遣っているはずだ。冬にはその広島湾でとれたカキを食べる。そのカキは、近くで増えるアマモのおかげでより健全に育つ。アマモは酸素を供給してくれるし、夏の異常な水温上昇を防いでくれ、かわりにカキは水中のプランクトンをせっせと食べ、水の透明度を上げ、アマモが光合成をし易くする。アマモで生まれた魚たちの赤ちゃんは、少し大きくなるとカキ筏という沖合の岩場で、そこに住みつく「ちっちゃな奴ら」を食べて育ち、やがて広い海に出ていく。「里海資本論」は「里山資本主義」の概念をはるかに超え、海も山も島も、田舎も都会も包含する。広大な瀬戸内海の端から端までを、ひとつの経済圏、ひとつの環境として高めていく。
 広島県との県境にある愛媛県上島町弓削島には、十年前まで認知症のお年寄りを受け入れる施設がなかった。「ぼける」と島を出ざるを得ず、岡山市などにある街中の施設に入った。島では考えられない狭いスペース、馴染みにくい食事、生活は決まり事だらけで、暴れると手を縛られることもあったという。会話もほとんどなく、施設で暮らせば暮らすほど、認知症が悪化した。そこで、もともと町役場で働いていた竹林氏が立ち上がり、介護の資格も取って、島のお母さんたちの協力の下、なんとか食事がついて寝泊まりできる環境を整えた。都会の施設にある介護器具なども一切無しだったが、でもそれが、すべて良かった。島に戻ってきたお年寄りたちは、みるみる元気になった。長年食べていた島の食事、街中ではあれほど食が細っていたのにもりもり食べる。過疎の島だから苦情も来ないので、遠慮なく大きな声で話し始める。たまに施設から脱走しても、島は海に囲まれているので行方不明にはならない。しかも島中にお年寄りを知る「見張り」がいて、あそこで見た、ここに座っていたと、満面笑みの通報が来る。歩けなくなっていたお年寄りも、歩き始める。「奇蹟」でも「たまたま」でもなく、これこそが「里海の実力」ではないか。元気をなくしたお年寄りを「生き返らせる」のは、最新の設備や介護技術ではない。生き物である人間にとって心地よい環境なのだということを納得させられる。環境とは暖かな日の光であり、心地よい海風や空気であり、新鮮で食べ慣れた食事であり、さらには優しく寄り添ってくれる若者の存在だ。なんてことのない自然の中の散歩が最も良い環境なのであり、人を生き生きとさせるのだ。科学技術を最優先にした豊かさを組み上げてきた「旧来型の文明」にとってかわる「新たな文明」が、にこやかに顔を出している。