「腐敗の時代」 1992年12月15日 渡部昇一著

イメージ 1政治などの腐敗を糾弾する内容かと想像してしまうタイトルですが、そうではありません。1992年に書かれたものですが、戦後の高度経済成長期を経て奇跡の復活を遂げたのに、この平和と繁栄の日本に不満が充満していることを、1700年代のイギリスの事例に似ていると解説しているのです。その時の日本の青年の不満は73.5%と、10%台からせいぜい30%台までの欧米や世界各国と比べて圧倒的に高いのです。しかし、日本は第二次世界大戦後の戦争回数はゼロであり、兵役適齢者(若者)に対する軍人比率も一人当たりの国防支出費も世界の最低国なのです。まさに平和と繁栄の故に不満を起こした260年前のイギリス人そっくりなのです。
 18世紀後半に市民社会が存在したのは西欧と日本だけで、それを代表する浮世絵の春信、春章、歌麿が活躍したのは、極めて評判の悪い田沼時代なのです。浮世絵のような淫蕩なものは、腐敗と堕落の時代にぼうふらでも湧くように出てくるのかなと考えてしまいます。しかしよく調べていくと、西洋でも古典文献を読める学者がいなかった頃、本居宣長は「古事記」を読みほぐしていたのです。さらに驚いたことに、蘭学の金字塔とも言える杉田玄白らの「解体新書」や大槻玄沢の「蘭学階梯」が出たのも田沼時代、平賀源内がエレキテルの実験などをやって人を煙に巻いていたのも、恋川春町の「金々先生栄華夢」など、いわゆる黄表紙が出始めたのも、川柳こと柄井八右衛門が活躍したのも、塙保己一の「群書類従」が出、心学が広がり、蕪村が活躍したのも田沼時代なのです。当然、こんなにも江戸らしい文化が形成された時期が、どうして腐敗の極に達した泥沼時代などと悪口ばかり言われるのでしょうか。それほど批判されるのであれば、次はどのように素晴らしい時代になったのでしょうか。そう思って次の時代を見ると啞然とします。その後を継いだ松平定信は、田沼時代の泥沼的汚職政治を廃して、清潔な政治を施した教養ある政治家というのが一般的評価です。しかし、倹約奨励も行き過ぎで、外からみると日本文化の抑圧者にしか見えません。新しい工夫をした品物を作ることを贅沢だと非難し、書物や絵草子や浮世絵も駄目、高級なお菓子もいけない。女の装身具や庶民の髪結いも禁止・・・というように際限なく禁例が続きます。それよりもっと悪質なのは学問の統制で、朱子学以外の学派が藩儒たることを禁じたのです。そんな定信はたった6年間だけしか政権の座におらず、35歳の働き盛りで退かざるを得なくなりました。しかし歴史は繰り返し、後の水野忠邦は定信の真似をして天保の改革を行い、贅沢、言論、出版、演劇などのすべての文化活動を停止し、言論弾圧で多くの学者を死に追いやってしまいました。日華事変の前にも同じように質素倹約を奨励する時代が来ましたが、それほどまでにして贅沢を禁止した政策の行方が何であったかと言うと、もちろん太平洋戦争であり、原爆であり、敗戦です。贅沢品を攻撃したり、政治の腐敗を声高に叫ぶ勢力には気をつけないといけません。もちろん、東条英機自身は賄賂を取らなかったでしょう。しかし、使途に制限なく会計検査もない機密費が、太平洋戦争突入時には2億円くらいあり、現在の価値で兆の単位のお金がばら撒かれていたのです。これらの資金は軍部が推薦する立候補者にも当然ばら撒かれました。
 そうならば、許される腐敗と許されない腐敗とを、どう考えればいいでしょうか。選挙で候補者がお金をばら撒いたというと、みんな腐敗だと言って怒ります。しかし、天下の大新聞が好意的な記事を何度も掲げること、社会の公器を特定の個人の選挙運動にタダで使うのはまごうことなき腐敗なのに、人はそれに対して怒りません。組織的腐敗は人の嫉妬心を刺戟しないという不思議な性質を持っています。ある大都市の革新市長が、仕事の量が大して変わらないのに局長クラスの数を倍にしたり職員の数を大幅に増やして膨大な税金を無駄に使おうとも、市長自身の着服分が少なければ問題にならないのです。組織的腐敗はわれわれに嫉妬をおこさせにくいからです。個人的腐敗よりも組織的腐敗の方が格段に恐ろしいのに、陸軍機密費による翼賛選挙をも当時の日本人大部分は好意を持って眺め、支持し、政党政治の個人的腐敗をなくす正義だと信じていたのです。戦前のテロがなく、個人的腐敗の政党政治が続き、国民は正義に鈍感になって大東亜建設などという理想を持たず、欧州の大戦に便乗してしこたま儲け続ければよかったのに、などと当時言ったら酷い目に遭ったでしょう。あの当時の青年将校に正義感が欠けてさえいてくれたら、政党も財閥も大いに腐敗し続けたでしょうが、日本は敗戦を知らず、一般に人々も快適に腐敗の生活を送ることができ、ビルマやフィリピンのジャングルの中で文字通り腐敗して蛆に喰われてしまうこともなかったでしょう。しかし日本人には、田沼を嫌い、定信の登場に喝采し、政党政治を軽蔑して清潔・武断の軍人政治を喜んだ前歴があります。そろそろ正義と清潔、つまり組織的腐敗が優勢になる頃で、注意が必要です。