「裁判の非情と人情」2017年2月21日 原田國男著

イメージ 1  有罪率99%といわれる日本の刑事裁判で、20件以上の無罪判決を言い渡した元東京高裁判事が、思わず笑いを誘う法廷での一コマから、裁判員制度、冤罪、死刑にいたるまで、その知られざる仕事と胸の内を綴った本です。「裁判官の一番欠けたところは、世情と人情に疎いことだろう。しかし、これが一番大事なことかもしれない。いくら立派な判決文を書けても、これに疎ければ、本当に良い判断とはいえないだろう。」
   裁判での基本原則は、クロと断定できない場合は無罪で、著者が20件の無罪判決をしたケースも、状況を一変させる真事実が解明されて劇的な逆転無罪というようなものではなく、多くは証拠不十分のような灰色無罪と言います。裁判官としては有罪の数が出世に資するとか、検察の主張通りにするほうが楽で、有罪判決をしてしまいそうに誤解されていますが、裁判官の動機の根本は正義です。有罪という大勢の雰囲気に反して、無罪を決して判決文を書くときは楽しくてしかたがないそうです。
   藤沢周平全集を何度も読み返したそうで、毎日新聞読書欄の「この三冊」というコラムには、“裁き”と文学をテーマに、その中の「海鳴り」「玄鳥」「蝉しぐれ」を挙げたそうです。
   著者が、新任判事補として最初に仕えた裁判長は、起案した判決書をまったく直さない、一字も修正しない人でした。そのほうが楽だと思うかもしれませんが、逆に大変だったそうです。自分が起案したものを裁判長がそのまま読み上げるので、一字でも誤りがあってはならず、どうせ直してくれるだろうという安易な気持ちは吹っ飛びました。そのプレッシャーは大きく、そこがこの教育方法のミソだとも言えます。この裁判長は、合議でも、ご自分の意見は最後まで言わないそうです。右陪席、左陪席、司法修士生に時間制限なく議論させ、まとまらないと日曜日に自宅でもその続きをしました。合議を尽くして、最後に右陪席がこんなもんでしょうかと言うと、それでいいでしょうと言われるだけで、その間、ニコニコして議論を聞くのを楽しまれている風情なのです。驚いたのは、その議論の最中に地方からの出張の挨拶で裁判官が来た時に、簡単に挨拶で終わらすのが普通なのに、せっかく来たのだからと合議に参加させて意見を述べてもらうのです。合議において自由闊達に議論しろとは誰でも言いますが、ここまで徹底してその雰囲気を大切にされたのは、この裁判長くらいです。起案の例と同様、自分の意見は殺して、合議体として最高の合議結果と判決を練り上げようとされたのです。人間の器が違うと著者は実感しました。この裁判長は、法廷での訴訟指揮でも素晴らしかったそうです。安田講堂事件で大量起訴された学生の公判が始まった時、多くの法廷では被告人らの冒頭の意見陳述で不規則発言が相次ぎ、被告人やそれに呼応した傍聴人全員の退廷命令が繰り返されていました。ところが、この裁判長の法廷では被告人の意見陳述を一切制限しなかったのです。1時間でもさせ、次の人も同様、さすがに次は30分、次はさらにその半分、最後の8人目になると「もうありません」と言います。拳を振り上げて裁判所を糾弾しようとした学生もすっかり牙を抜かれ、何時間も語れない空疎な内容が露呈し、暴言も吐けず、同志の言葉の虚しさを身にしみて感じてきます。結局、その法定だけ平穏に終わり、学生たちは敗北感を抱いて去りました。当然のことながら、この裁判長は、最後に最高裁判事までなられました。