「嬉遊曲、鳴りやまず」 2002年9月1日 中丸美繪

 イメージ 1日本の西洋音楽史上、彼ほど多くの弟子を育てた人間はいないと言われる、斎藤秀雄氏の生涯です。現在、日本の指揮者や音楽家が世界に出てたくさん活躍していますが、そこにこのような偉人の存在があったとは知らず、不見識でした。本人の「サイトウキネン」という名の示す通り、一人の教師を記念して弟子たちが集まり、オーケストラとフェスティバルができてしまうという世界でも珍しい事象を遺した人物ですが、非の打ちどころのない偉大な人物であったというのではなく、調べれば調べるほど人間臭く、アクの強い人間で、多くの人々から厭われる存在だったそうです。斎藤氏は、「苦労というのは、嫌なことをするときに言うので、僕のように好きなことをやるのは苦労とは言わない」と言っています。生徒たちは、斎藤先生は分析力、情熱、何もかも一種の天才で、あんな先生が日本に出たというのは一種の奇跡で、前にも、今も、そしてこれからも、出るとは思えない、神様から遣わされたとしか思えないと評しています。山本直純は、音楽家斎藤秀雄の生き方は「男の道」そのもので、秀吉のように「鳴かしてみようということを死ぬまでやった。でも鳴くまで待てないで死んじゃった人なんだ」、小澤征爾は「斎藤先生がいなかったら、僕も秋山和慶も、そしてたぶん岩城宏之さんも若杉弘さんも出なかっただろう」と言っています。
斎藤の父は、英語を組織的に研究して英和辞典を書き上げ、イディオム研究と文法では日本における第一人者、神田に正則英語学校を設立した明治の英学者斎藤秀三郎です。1898年から翌年にかけて出版された「実用英文典」は、これ以上日本の英語学界に浸透した英文法の本はないとまで言われ、日本の学校教育におけるその後の英文法の内容と形式に大きく影響を与えました。1902年の日英同盟がもたらした英学ブームは、太平洋戦争後のアメリカ文化流入の比ではなかったそうです。秀三郎は分秒を惜しんで仕事をし、便所の中にすら見台が備え付けられて百科事典が置かれました。自分には7人の子があるから、その結婚式の為に一生の間に7日間だけ勉強時間を犠牲にしなければならないと言っていたほどで、家族と食事を共にすることすらなくなっていました。その理解力、分析力という頭脳を父から授かりました。母であるとらの秀雄に対する教育は、「男子ひとたび志を立つればこれを中断することなかれ、万難を排しても成し遂げなさい。人に使われる身にならず、人を使う身になれ」という武士道の精神ともいうべき道徳律や処世訓でした。このような両親に育てら、金銭的には非常に恵まれていました。
 斎藤秀雄は、敗戦で物質的なすべてを失った日本に残されたものは無形の文化と芸術しかなく、日本を立ちあがらせる原動力は芸術の教育だと考えました。そして戦後、「子供のための音楽教室」と世界的音楽家を輩出する日本の代表的な音楽大学、桐明学園を設立して多くの人を育てます。1970年にヨーロッパへの演奏旅行は大評判となりますが、日本人はとかく物真似が上手いという揶揄に対しても、日本人は工夫する知恵を豊かに持っている優秀な民族であると誇りを持っていました。さらに、日本の音楽はこれから輸出産業になるかもしれない、このオーケストラはいわば就職活動であるとも言います。その後、ヨーロッパにおいて日本人演奏家が活躍するようになったのは、この成功が大きく貢献しているのです。
 斎藤先生の指揮法の一番の特徴は、力を抜くという考え方です。人間の動きというのは、実際には一の力でいいのに十くらい使ってやっており、そうやって指揮すると無駄な力がどんどんたまって、一晩振るだけで筋肉痛がすごいことになります。その方法を、小澤征爾山本直純若杉弘岩城宏之秋山和慶らで実践してメソッドを完成させ、後進の指導に生かしました。具体的には、緊張を一辺に解き放す、和声は緊張と弛緩で成り立っているという考え方や旋律法のこともそうで、普通の指揮者はそんなことは考えずに自分のエゴか主観でオーケストラをねじ伏せるか、もしくはオーケストラが行く方向に一緒に行き、その中からほどほどのやつを選んだりします。斎藤は、自分がどうの相手がどうのではなく、宇宙にはこういう法則があるから音というのはそういうふうになるもんだ、オーケストラと指揮者が一つの宇宙をつくり出すという発想で、こういうふうになれば音と動きは決まっていると教えました。ドイツ語やフランス語などの言語があるように、音楽にも独自の言葉がある。同じアルファベットを使っていても、発音は違うし意味も違う。同じ音だからといって同じように演奏するのではなく、同じ言葉を使っても作家がそれぞれ独自の意味で言葉を操るように、作曲家によって表現は独自のものになっています。作曲家がその音符に何を要求して書いたか、この裏から読むということを、斎藤は梅原猛の「隠された十字架」を読んで発想したそうです。
 人間には肉体的頭脳的に別個の“素質”があり、それを伸ばす“努力”と、勉強する時の“注意力”、この三つを掛け算したところで成果が出てくると言います。教師にできるのは注意力を喚起することだとも言います。
 少なからず死を意識し始めた頃には、一分たりとも時間を無駄にせず、レッスンに専心しました。生涯をかけて追究した音楽の結実を弟子に遺産として残さなくてはならず、捨て身になって、他のことを投げ捨てて、レッスンレッスンで朝から晩まで教えました。そのような死の淵にいるにもかかわらず、無理に参加した志賀高原での最後の合宿では、「ごめんね、・・・僕は体がもういうことをきかない。手がこれくらいしか動かないんだ」、生徒たちは斎藤が振って見せたわずかな手の動きの中に、あらゆる音楽を読み取ろうとし、斎藤が常日頃「激しく振り下ろせ」と言っていたところで弱々しく腕を動かすと、オーケストラはこれまでにないほどの音を響かせました。それは奇跡であって奇跡ではありませんでした。アンサンブルは時間の一致ではなく、心の一致だという斎藤説の結晶でもあるからです。合宿の最後の晩にはコンサートが開かれ、モーツァルトの嬉遊曲が演奏されました。テンポも遅く、斎藤が常々言っていたモーツァルトとは別のものでしたが、しかしこの嬉遊曲こそ、「斎藤と楽員の心と心が一体となった類稀なモーツァルトだったのです。