「花森安治の仕事」 1992年3月15日 酒井 寛著

 NHK朝の連続ドラマ“とと姉ちゃん”で唐沢寿明さん演じた、暮らしの手帖イメージ 1
で、仕事がものすごくできるが非常に変わり者だった編集長の物語です。花森氏は、戦争時に大政翼賛会宣伝部で働いて、「欲しがりません、勝つまでは」などの戦時標語の普及につとめ、戦争に負けた途端に女の雑誌を始め、自分も髪にパーマをかけ、スカートをはいて銀座を歩いていました。戦後二十余年経ってから、「武器を捨てよう」「国を守ると言うこと」「無名戦士の墓」「見よぼくら一銭五厘の旗」などを暮らしの手帖に立て続けに発表し、国や戦争について庶民の暮らしの側から激しく発言しました。彼は、「文藝春秋」池島信平、「平凡」岩崎喜之助、「週刊朝日扇谷正造とともに、戦後の大衆ジャーナリズムをつくり上げた一人だそうです。
 非常に曲がったことが嫌いというか、正義感あふれる人で、娘さんによれば「わがままで、感情をコントロールできなくなるところがあったけれども、根本は、常識を踏まえて生きてきた人」だそうです。
仕事には非常に厳しい人で、よく怒鳴ったそうです。特に本人が間違いの重大さに気が付いていない時、全身で怒鳴りました。暮らしの手帖社長である大橋鎮子氏が、花森氏に一番いい仕事をしてもらうために全神経を集中しなければならないほどだったそうです。赤い薄手のウール地で座布団を造った時、花森は色見本を見せて大橋社長にその赤の布地を探せと言いました。まだ布地のあまりない頃で、デパートや服地問屋を探しまわりましたがどこにもなく、どうしても探せという花森に困り果てて、ついには染物屋に頼んで染めてもらいました。雑誌は白黒写真なのに、どうしてこの赤でなければならなかったのかと大橋が聞いた時、花森はかみ付くように怒り、まもなく雑誌にカラーの時代が来る、その時に編集者に色の感覚がなかったらどうなるのだ、この一枚一枚の写真が君の勉強じゃないかと、カンカンになってそう言ったそうです。しかし、そのような大橋社長が終戦の年に初めて「女の人のための雑誌を作りたい」と相談した時、花森は「今度の戦争に女の人は責任がない。それなのに酷い目に会った。僕には責任がある。女の人が幸せで、みんなにあったかい家庭があれば戦争は起こらなかったと思う。だから、君の仕事に僕は協力しよう。」と答えました。
暮らしの手帖では、広告主の影響を受けないために広告を取らず、収入は売れた冊数だけでした。大企業ではなく読者をスポンサーとして自前のジャーナリズムをにぎり、批判の自由を確立して守り通しました。大メーカーの研究所に編集部一同で見学に行った時、その研究所には博士号を持つ社員が何百人いると説明を受けたのに対し、花森は「うちには博士は一人もいない、みんなしろうとだ。」と得意そうに言いました。物を作るのは博士だろうが、それを使うのは素人だ。だから、作ったものへの発言権は素人にある、というのが花森氏の立場なのです。メーカーは当然、素人の一雑誌社よりも厳密な商品テストをしているはずだと、編集部も思っていました。ところが、そうではないことに気がついたのは最初はどびんで、湯が注ぎ口から後ろへ回ってポトポト落ちることがあり、メーカーは実際に使われる湯ではなく、表面張力の違う水で製品テストをしていたのです。ミシンでは、メーカーは糸も布も使わずに機械のから回りで耐久テストをしていましたが、編集部は実際に1万メートルを縫って試験していました。花森は、実際に素人が使っているようなやり方でテストしました。魚焼の網では実際に焼き、焦げ付かないという樹脂加工のフライパンでは、百回、二百回、三百回と野菜炒めを作ってみました。それは人手がかかるし、時間もかかりますが、その実証主義こそが、素人がメーカーに立ち向かえる方法だったのです。このような商品テストを失敗したら、暮らしの手帖はつぶれると花森氏は言っていました。人様が命がけで作っている物を、いいとか、悪いとか批評するのだから、テストには完全主義を押し通し、ミスをした職員には大声で怒鳴りました。その一方で、大橋社長には「社員が毎日、しあわせに働いているかどうかを、いつも気にかけている番人になれ。会社が危なくなったら、君は自分の貯金をすべて出して社員を守れ。自分の貯金を自分のものだと思うな。社員の仕事のことで外部と面倒なことが起きたら、まず、君が出て行って謝れ。謝るということは、君の大事な仕事だ。」と言っています。大橋社長は、社員を大事にしなければいけないとは、誰でも言うが、そのことをこのように具体的に口に出して切ってくれる人はなかなかいない。有り難かったと言っています。
 大政翼賛会で戦争を鼓舞するような仕事をしていたことについて長らく口を閉ざしていましたが、「僕は確かに戦争犯罪を犯した。言い訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対に騙されない。騙されない人たちを増やしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている。(昭和46週刊朝日)」「戦後だけでなく、明治以来、新聞のやってきた最大のマイナスは、やはり、今度の戦争をついに防ぐことができなかった。僕に至っては、戦争を防ぐどころか、一生懸命それに協力してきたのだ。それだけに、若いジャーナリスト諸君が若い頃の僕と同じようなことをちらっちらっとやっている、それを見聞きするのが辛い。」、「朝鮮戦争ベトナム戦争、東南アジアの途上国をダシにして大企業は太り、日本は豊かになり、それが我々の幸せにつながっていると言うが、公害は広がり、緑は失われ、庶民は家一軒建てられない。僕らはもう一度、あの焼け跡に戻ってみよう。・・・僕らに住む屋根はなく、纏う衣もなく、口に入れる食物はなく、幼い子に与える乳もなかった。僕らは何の名誉もなく、財産もなかった。僕らは狂った繁栄と別れてそこへ戻ろう。・・・この頃、もうどうにも我慢しきれなくなった。馬鹿にするのもいい加減にしろ・・・、みんな自分のことだけ、自分の派閥だけ、・・・。政治の在り方を見て腹も立たず、仕方がないとうすら笑いを浮かべ、ばかげたテレビ番組にうつつを抜かし、野暮なことは言いっこなしで暮らしているうちに、やがて、どういう世の中がやってくるのか。」