「平穏死10の条件」 2012年7月 長尾和宏著

イメージ 11000人以上の最期に立ち会った著者が、勤務医時代と在宅で看取った死とでは最期の苦しみが全く違うことに気がついたそうです。在宅での最期はほぼ全てが「平穏死」なのです。多くの病院の医師たちは、患者を11秒でも長く生かすことが医者の使命と教わったから「死」を敗北ととらえる傾向があります。だから、一度始まった延命治療を中止することは、たとえ本人や家族が強く望んでも簡単ではないのが現実です。  
「ピンピンコロリ」を理想にしていた100歳を超えた人が、正月に餅を喉に詰まらせました。焦る家族に「今救急車を呼ぶということは蘇生措置を頼むということで、蘇生に成功したら延命処置に移るかもしれません。そこまで考えてから決断してください。」と早説明しましたが、苦しむ患者を放置できないのか家族は救急車を呼びました。いったん心配停止に陥った患者は、救急隊員の迅速な処置の甲斐で蘇生に成功しましたが、その後は集中治療室で人工呼吸器につながれ、1ヵ月後には認知症が進行して食事をうまく呑み込む事ができなくなり、さらに1ヶ月が経過した日に胃ろうが増設されました。結局自宅に帰れず、そのまま次の老人施設へと移されて植物状態とも言える様相になりました。「自然にポックリ逝きたい。延命治療は絶対嫌だ。」というのが口癖だった患者の願いはどうなるのでしょうか。いざそうなるとご家族はすっかり慌ててしまって救急車を呼んでしまったのです。
 そもそも昔は「平穏死」しかなかったのです。年よりは食べられなくなったら水を与えるだけ、そうすると苦しまないで静かに息を引き取る。水だけで1ヶ月は持つという教えが古くからあります。かつてはそれがどの地域においても「当たり前のこと」だったのです。勤務医時代、食道静脈瘤破裂で吐血した患者にせっせと輸血し、鼻から無理やり管を入れて輸液ポンプで大量の点滴を入れて水膨れ状態にしたことがあります。輸血しては吐血、吐血しては輸血、また吐血、血だらけのベッドサイドで当時はこの繰り返しの意味がよくわかりませんでした。それが毎日のように患者の壮絶な最期に立ち会ううちに、「医療者が余計なことをするから苦しむんじゃないか」という考えに変わっていきました。終末期の延命治療は患者の苦しみを増すだけなのです。
末期ガンの平均在宅期間は1ヵ月半です。一般的に余命1ヶ月になると徐々に食べる量が減っていき、多くの在宅ホスピス医や海外の病院では人工的な栄養補給をほとんど行いません。500ml以上点滴すると、腹水や胸水、痰が増して苦痛の方が大きくなるので、200mlで家族に納得してもらいます。脱水状態では体全体が省エネモードになり、まず心臓に負担がかからなくなって心不全になりません。ベッド上でも呼吸が楽で、浮腫も少なく、胸水や腹水が溜まるために抜くことで水分と一緒にアルブミンという貴重なタンパク栄養素も抜くこともありません。腹水を抜くことは赤血球を除いた血液を抜くようなものです。もし口から水を飲めないのであれば体内にある水を使うようになりますが、お腹や胸には何リットルも貯水されており、脱水のおかげで消化管粘膜や全身の浮腫も取れ、心不全、呼吸不全、腸閉塞が改善され、少し食べられるようにもなります。胃がんや大腸がんによる腹膜炎でも、患者は腸管の浮腫さえ取れれば腸は少しでも動き、最期の日まで食べられます。貧血も悪いことではなく、がん細胞に供給される血液が減るとがんの進行も遅くなるのです。人工的にたくさんお水や栄養をれれば、がんが急成長するだけでなく、胸水・腹水、腸閉塞、嘔吐、呼吸困難などの苦痛が増すだけなのです。
もちろん、麻薬などによる痛みの軽減など、緩和医療はしっかりと行います。ガン以外の代表的な疾患は認知症です。認知症終末期には自ら意思表示ができなくなり、嚥下困難になって誤嚥性肺炎を繰り返すようになります。それを避けるために、お腹に穴を開けて管を通して胃に直接流動食を注入する「胃ろう」の増設が検討されますが、もはや本人には意思表示ができないので家族が決めます。「胃ろうを造らないと死にますよ」と医師に言われると、「ではとりあえず」と気軽に承諾してしまうケースが珍しくありません。医師側も「胃ろうを造らないと、延命治療をしなかったと家族や遠くの親戚から訴えられるかもしれない」と、とりあえず延命処置を施そうとします。米国では本人の承諾なく胃ろうを増設したら訴えられるのに、日本ではその逆になっているのです。私は認知症終末期における平穏死は、胃ろうを選択しないことだと思います。「最期まで口から食べること」というのが私の持論です。病院に入院すると、誤嚥性肺炎で入院が長期化する可能性があるので、どうしても胃ろうや高カロリー輸液を勧められます。誤嚥性肺炎が命取りになった時の責任を避ける意味もありますし、ゆっくり時間をかけて食事を口に運べば何とかなりそうな場合でも、介護の手間を理由に勧められることもあります。しかし、胃ろうでも体位によっては簡単に食道から喉にまで逆流して誤嚥を起こすこともありますし、口を使わないので口腔内の雑菌が繁殖して肺炎を起こす可能性もあるのです。「とりあえず胃ろう」を承諾する前に、以下のことを医師に確かめてみたらどうでしょうか。
「胃ろうでどれくらい延命できますか?」
「元気になったら、口から食べさせてもらえますか?」
「本人や家族が希望したら中止してくれますか?
「胃ろうを造ると、誤嚥性肺炎をどれくらい起こさなくなりますか?」
「胃ろうを造ると施設や在宅でケアできますか?地域での受け入れ状況はどうですか?」
 胃ろう増造設は、自己負担額は合計で月5万円弱とそれほど高くありません。しかし、胃ろう問題が存在するのは世界中で日本だけで、先進国のほとんどでは延命治療中止、すなわち尊厳死に関する法律ができています。そもそも人工栄養が存在しない国が圧倒的に多いのに、日本では、本来なら年400万円の費用が、国民皆保険制度で自己負担が60万円弱しかかからず、「終末期なら、とりあえず胃ろう」となりがちなのです。
病気や老衰の終末期に緊急入院をするかどうか、食べられなくなったらどうするか、元気なときから家族とよく話し合っておくことが大切です。在宅療養でも痛みの治療は全く可能です。痛みが消えれば動けるし、食べられるし、笑えます。病院は患者が病気を治してもらう代わりに我慢して入る牢獄のようです。寝たきりではなく、最期まで好きなことができる「自由」こそが人間の「尊厳」ではないのでしょうか。「ちゃんとした看取りまでやる在宅医」は、在宅看取りの実績が参考になります。必要に迫られてからではなく、元気なうちから平穏死の実績のあるかかりつけ医を、外来受診などで相性も考慮して探しておくことをお勧めします。在宅看取りと決めたら、救急車を呼ばずに在宅主治医に電話して待つようにすべきです。
施設を選ぶ際に参考になるのは、入所者が亡くなるときに他の入所者やスタッフたちが正面玄関から見送るかどうかです。職員自身が「死」が怖かったり、「一度も看取りの経験をしたことがない」、「人聞きが悪いから施設内で死なれては困る」などの理由で病院搬送になりがちです。施設を終の棲家と決めた場合、病院に搬送せずに平穏死を迎えさせてくれる施設を選ぶことです。
転倒→骨折→入院を2回繰り返すと、ある程度の年齢の人では必ずと言っていいほど認知症状が出てきます。寝たきり状態になると全てが悪循環になり、ついには廃用症候群誤嚥性肺炎の繰り返し、そして胃ろう造設というコースが予想されます。まだまだ健脚な人は日々の散歩などを通して、また要介護認定の方はケアマネージャーとよく相談して住宅改修、手摺の設置など、自分にあった転倒予防策を真剣に考えて欲しいと思います。