里山資本主義

イメージ 1里山資本主義」2013年藻谷浩介著
人々はマネー資本主義の先行きに対して、そのシステムが機能停止した時にどうしていいのかわからないから根源的な不安を抱いている。対処できるバックアップシステムが存在してないところから不安が来ているのだ。里山資本主義こそ、お金が機能しなくなっても水と食料と燃料を手にし続けるための究極のバックアップシステムである。岡山県真庭市で銘建工業の中島社長が始めた木質バイオマスエネルギーのように、分野によってはメインシステムと交代することも可能かもしれない。里山で暮らす高齢者の日々は、毎日昇りくる陽の光の恵みと四季折々に訪れる花鳥風月の美しさ、ゆっくりと土から育つ実りに支えられて穏やかな充足に満ちている。お金を持って自然と対峙するのではなく、自然の循環の中で生かされている自分であることを肌で知り、身近にあるものから水と食料と燃料の相当部分をまかなえているという安心感がある。里山資本主義とは、いざという時の準備でもあり、己の行動によって安心を作り出す実践なのである。
「日本経済のダメダメ論」、つまり先進国の中で目立って取り残された一人負けの状態だから、日本の経済的繁栄が失われつつあると言われる。しかし、そう簡単に日本の経済的繁栄は終わらない 中国はこの20年間で馬車や自転車が行き交う田舎町から、高速道路と地下鉄が縦横に走る大都会に一気に変貌したが、東京がその陰で牛馬で物を運ぶ社会に転落したわけではない。中国人が日本に来れば、環境といい清潔さといい地上の楽園だと思うし、日本より一人当たりGDPの大きいシンガポール人でも、日本をよく知っている層は食べ物の美味しさやおもてなしなどのいろいろな面に日本の懐の深い豊かさを感じている。
そうは言っても、仕事のない若者が増え、お金の無いお年寄りが増え、地方都市は衰退を極め、日本人の生活は惨めになっていると言う人もいるが、それは日本経済全体の不調にあるのではなく、実際には苦しんでいる人や地域がある分、うまくやっている人や地域もあり、全体では差し引き微増となっているのだ。個々の問題ごとにある根深い構造をそれぞれ解きほぐして、個別に解決を図るしかないのだ。ちなみにGDP以外でも平均寿命は世界最高水準であるし、凶悪犯罪も減っているし、困窮者が暴動を起こしているわけでもない。本当に日本経済が衰退に転じれば、まだ今はたいしたことはなかったと思い知ることになるのではないか。日本が失われたバブル以降の20年で本当に国際競争力が無くなったのであれば、なぜ今の方が円高になっているのだろうか?円高なのは輸出が増えたからなのだ。バブル最盛期に兆円だった輸出額は、2012年にはこの20年間で1.5倍に増えているのだ。さらに、震災後の超円高の下でも輸出額は減っていない。円高になっても買わざるを得ないほど非価格競争力のあるモノを輸出してきたからである。デフレ脱却のために世の中に流れるお金の量を増やせということで、日銀が史上例のない金融緩和を行なっている。確かに際限なくお札を刷ればいつかは必ずインフレになる。しかし、いつかどこかで留め金が外れて、極端なインフレに転じる可能性もある。リフレ論者には、そのような急激なインフレではなく緩やかにインフレになっていくことを保証できる理論的成熟も実証データの蓄積もない。インフレが過熱したときに制御できる方策があるかと問えば、市場経済は政府当局がコントロールできるという一種の確信を持っているようだ。これを近代経済学マルクス経済学化と呼んでいる。昔ならマルクス経済学に流れたような思考回路の人間(少数の変数で複雑な現実を説明でき、コントロールできると信じる世間知らずのタイプ)が、旧ソ連の凋落以降、近代経済学に流れているということかもしれない。
真の構造改革は「賃上げできるビジネスモデルを確立する」ことで、「デフレ」と言われているものの正体は、不動産、車、家電、安価な食品など、主たる顧客層が減りゆく現役世代であるような商品の供給過剰を、機械化され自動化されたシステムによる低価格大量生産に慣れきった企業が止められないことによって生じた、「ミクロ経済学上の値崩れ」である。だから、これは日本経済そのものの衰退ではなく、過剰供給を止めない一部企業と、そこに依存する下請け企業群や勤労者の苦境に過ぎない。そしてその解決策は、それら企業が合理的に採算を追求し、需給バランスのまだ崩れていない、コストを転嫁できる分野を開拓してシフトしていくことでしか図れない。同じように人口の成熟した先進工業国である北欧やドイツの大企業、イタリアの中小企業群などはまさにそのような道を歩んでいる。要するに、「企業による飽和市場からの撤退と、新市場の開拓」がデフレ脱却の唯一の道である。一方的な現役世代の増加に甘えてきた戦後日本の資本主義の現実であり、本来持っているべき経営戦略の欠如した企業が滅んでいく過程、その前向きな産みの苦しみが今の「デフレ」なのだとも言えよう。ただ、中国、韓国、台湾、シンガポールなどの東アジア新興国でも日本以上の少子化が進んでおり、生産年齢人口は数年以内に減少に転ずると言われ、日本だけがデフレに沈んでいくのではなく、日本で見られる「ミクロ経済学上の値崩れ」がライバル国の間でも深刻化していく。上海では出生率は0.7とも言われ、三世代で人口が8分の1に縮小してしまうという驚異的水準となっている。
高齢化するから日本が衰えるというのは間違っている。際限なく続くかもしれない少子化に比べれば、高齢化は時間が解決する問題だとも言える。韓国やロシアも日本以上の急速な人口減少に直面していく。日本はこれまで人類が経験したことのない超高齢化社会トップランナーであり、マネー資本主義を徹底的に突き進んでその限界を自覚しつつある日本だからこそ、里山資本主義的な要素を取り込むことで、「明かるい高齢化」の道を進んでいけるという楽観的なシナリオを持っている。根拠の第一は、里山資本主義の普及で、既に世界トップクラスの健康寿命がさらに上昇すると考えられることだ。平均寿命も長く医療費も全国最低水準の長野が日本有数の里山の県であることも参考となる。良質な水を汲み、清浄な空気を吸い、自宅周辺で取れる野菜を活かした食物繊維の多い食事。生活の中に普通に自然と触れ合う暮らしが取り込まれている、このような長野県並のパフォーマンスが全国に広がることで、医療福祉の負担増はかなりのところまで抑えられる。第二の根拠は、金銭換算できない価値を生み出して地域内で循環させる高齢者が増えていくであろうということだ。地域の高齢者が生産する量が半端すぎて市場に出せない農産物を、地域の高齢者福祉施設が食材として使用し、そこで出た廃棄食材を肥料にして高齢農民に還元する。生産者の生きがいの増加、施設利用者の健康促進、結果としていらなくなった食材代や肥料代、それを運ぶ燃料代、いずれも金銭換算できない価値が地域内を循環させて輪を拡大させる。これ以外にも、元気な高齢者が先に衰えた高齢者を介護する、公共スペースに花壇を作る老人会、通学路の見守りをする高齢者、幼稚園や小学校の放課後に遊びを教えるおじいさんなど、金銭換算できない価値を生み出して増殖させている高齢者は全国に無数にいる。自分が食べるために畑を耕す高齢者も、土に触れて働くことで元気になり、余った野菜などをお裾分けすることで回りとの絆が生まれ、やはり金銭換算できない価値の循環が生まれていく。里山資本主義の普及によって、出生数の際限ない減少をどこかで食止めることができ、当面の高齢者の増加にも顕著なコスト増なしで対応できるとすると、2060年の日本は80歳以下の各世代の数が大きく違わない、安定度の高い社会に生まれ変わっている。世界的に逼迫が予想される食糧需給に関しても、そもそも温暖な気候、豊富な降水量、肥沃な土壌に恵まれた農業適地の日本は自給率が大幅に上昇しているに違いない。今後の人口減少によって都市開発でビルの下に埋めてきた農地を復活させることができる。国産木材を使った集成材の利用が進むことにより、副産物としての木質バイオマス燃料が安価で出回ってオーストリアのように燃料自給率が大きく高まっていくかもしれない。人口が減れば減るほど一人当たり利用可能なエネルギーのカロリー量は増えるわけで、メタンハイドレードなどの実用化などがなくとも、社会の安定性は大きく高まっていくであろう。人口減少によって、土砂崩れや自然災害の危険の高い場所から、昔から人が住んでいる安全な場所へと人間が移っていき、安全性も増す。そもそも人口減社会は、一人ひとりの価値が相対的に高くなる社会で、高齢者も障害者もできる限りの労働で社会参加し、金銭換算できるものやできないものを含めた価値を生み出し、対価を受けとることが普通にできる社会ともなる。機械化・自動化が進み、生産力が維持される中での人口減少は、人間一人ひとりの生存と自己実現を容易に、当たり前にしていく。増えすぎた人口を一旦減らした後に、一定水準で安定させてこそ、限られた地球という入れ物から出られない人類が自然と共生しつつ生き延びていくための、最も合理的で明るい道筋なのだ。2060年までまだ半世紀ある。50年という時間は時代が大きく変わるのに十分な時間だ。問題は、旧来型の企業や政治やマスコミや諸団体が、それを担ってきた中高年男性が新しい時代に踏み出す勇気を持たないことだ。古いヴィジョンに縛られ、もはや必要性の乏しいことを惰性で続け、新しい担い手の活力を受け入れることもできないことだ。しかし、年月はやがて消えるべきものを消し去り、新しい時代を島国の上にも構築していく。結局、未来は若者の手の中にある。先に消えゆく世代は誰も、それを否定し去ることができない。