「パリのカフェをつくった人々」1990~92年取材

イメージ 1 カフェというのは、コーヒーをはじめとするさまざまなソフトドリンクのほか、ビールやワインなどの酒類も飲むことができ、サンドイッチなどの軽いスナックなら一日中いつでも注文を受け付け、食事時には簡単な定食を用意することもある、喫茶店と食堂と居酒屋を兼ねたような存在だそうです。パリのカフェやブラッスリーの経営者の8割はオーヴェルニュ地方の出身者と言われます。オーヴェルニュはフランス国土のほぼ中央から西南部にかけて広がる中央山塊で、最高地点が千八百メートルほどの高原地帯で、フランス人にとっては“貧しい田舎”の代名詞のようなものとされています。19世紀の半ばから後半にかけて、パリの人々はセーヌ川の水を利用して生活していましたが、誰もが水汲み場から川も水を汲んで石造りの建物の上まで運ばないといけませんでした。そこで仕事を求めて上京してきたオーヴェルニュ地方の人たちが水運び屋として商売としたのです。次には空いている午後に炭を売る商売を始め、19世紀後半に上下水道が整備されると、水運び仕事の代わりに、炭屋に酒屋を兼業することを思いつきました。オーヴェルニュ産の濃紅色でやや渋みの強いワインを売り、これがパリの庶民たちの好みにも合って、やがて本業にとってかわったのです。故郷では若者たちが夏は山の上でチーズ作りに従事し、農閑期で仕事のない冬にパリの知人の店に出て炭の運搬仕事を手伝いというように、地元の労働力も供給されるようになりました。
 一方、ブラッスリーはもともとビール醸造所の意味で、ドイツ国境のアルザス地方に発祥したできたての生ビールを飲ませるビヤホールのことを指したそうです。1870年のプロシアとの戦争で13万人の大量のアルザス人がフランスに逃げ込み、パリにドイツ風のビヤホールを作ったのが始まりです。小さなビヤホールから出発して、次第に飲むよりも食べるほうに比重が移っていき、今ではビヤホールの気軽な気取らない雰囲気を残したまま、贅沢をすることもできるレストランとなりました。そのパリのブラッスリーに生カキなどの生鮮産品を供給するのは、フランス北部や北西部のノルマンディやブルターニュ地方ですが、ブルターニュはもともとイギリスの大ブリテンからアングロサクソンに追われたケルト人が移住してきたところで、そのブリテンブルターニュの言葉の由来だそうです。アルザスはゲルマン系、ブルターニュケルト系、オーベルニュはオクシタンでアラブの血が入り、フランスの飲食業界に関わっている連中はみんな異民族?フランスの事情が身近にわかるいい本でした。